うみうし海底書庫

うみうし(内海郁)の作品倉庫です。

『月夜のノクターン』⑶

 

月夜のノクターン紹介ページ

《紹介ページ》月夜のノクターン - うみうし海底書庫

 

『月夜のノクターン』⑵ - うみうし海底書庫

 

『月夜のノクターン』⑷ - うみうし海底書庫

 

 

 がたん、とひときわ大きな揺れで目を覚ました。

 体勢を崩し、座席から滑り落ちそうになったところを咄嗟に座席にしがみつく。容赦なく降り注ぐ暁の光が瞼越しに眼球を刺激するのが、まだ寝起きの朦朧とした脳には堪えた。目を開けることすら億劫だが、そういうわけにもいかない。手で光を遮りながらゆっくりと瞼を上げる。

 ろくに眠れなかったせいか、頭も重い。ズキズキと一定のリズムで刺さる痛みが煩わしい。無意識にこめかみを親指の腹で押した。

 ああ、昨晩は酷い目に遭った。

 結局、酒場に行きたがるアシルを止めることはできなかった。仕方なく空気だけ吸わせてやるため外に出ることにしたのだ。絶対に飲酒をしないという条件の下、できるだけ灯りのある健全そうな酒場へと向かった。

 だがレスリがほんの少し目を離した隙に、アシルはその場で知り合った愉快な地元住民と、乾杯を交わそうとしていた。脳裏にあの光景は蘇ったときときたら、まるで全身に冷や水を浴たようだった。反射的に彼から酒を奪い取り、にこやかに酒代の倍近い金額を男にに叩きつけ、高襟の首根っこを掴んで引きずりながら店を出た。

 その後は流れで宿屋に置いてある荷物をまとめ、朝一番の夜明けの列車を待ちに地番近い駅まで歩いて行ったのだった。

 その間一切の睡眠時間は無し。いくら丸一日眠りこけていたレスリでも、流石に硬いシートに腰かけた瞬間、うたた寝をはじめてしまった。勿論目覚めは最悪で、体中が痛む。ついでになぜか胃も痛かった。

「次はパリ駅ぃ、次はパリ駅ぃ」

 車掌の間延びした呑気な声が、ドアごしに耳に入った。

 崩れた体勢を立て直しボックス席の反対側……丁度目の前を見やる。諸悪の根源ともいえる男は、半口を開けながら気持ちよさそうに寝息を立てている。

 その寝顔に平手打ちを食らわせる事も出来たのだが、その綺麗な顔に手の形の痕をつけることに対しての申し訳程度の罪悪感が、その衝動を食い止めた。 

 ああ、なぜこの自由奔放で何を考えているかわからない男との付き合いを続けているのか。時折自身を問いただしたくなる。が、答えはすでに出ている。それについて考えることが悔しくてたまらない。眉間を強く抑え、レスリはそのの爪先を軽く蹴り飛ばした。

「うわっ、びっくりした」

 まるでばねの入った玩具のように飛び跳ねたアシルは、ずるりと座席から滑り落ちた。鳩が豆鉄砲を食らったような、間の抜けた格好があまりにも滑稽で思わずにやつく。

 なんだよう、とふくれっ面のアシルを軽く受け流す。

「もうすぐパリだ。そのだらしない顔をいつものハンサムなのに戻せ」

 アシルは大きくあくびをすると、頬を軽く叩いた。

「ああ、わかったわかった」

 目を擦りながら、アシルはステッキを手に取りゆっくりと目を伏せる。彼が何をしようとしているのか、すぐに見当がついた。

 はあぁと、わざとらしい盛大なため息をつくと、側に立てかけて置いた自身の蝙蝠傘のグリップで、軽くその頭を小突く。

「馬鹿が」

「痛い」

「そんなことで調律を使うんじゃない。いつも私にやるみたいにすればいいだろう」

「人にやるのと自分にやるのとでは、結構な違いが……あいた!」

 今度は脇腹に一撃。昔からだが、彼には変にものぐさな部分がある。

「全く、よくそれで国とのパイプ役が務まるな」

「うわー、怖い顔だよレスリ」

「この顔が恐ろしいと思うなら、少しは態度を改めろ」

 二人が下車の準備をし始めると、自然のもので溢れていた外の景色に人工物が現れ始めた。それは徐々に数を増やす。今すぐにでもここを出られる状態になった時にはもう、街の中だった。けたたましい汽笛の音を合図に、列車はゆっくりと動きを止めた。

 列車の階段を降り、帽子を抑え軽く車掌に挨拶するとレスリたちは足早に駅を出る。もに入ったパリの景色は、半年前帰郷した状態とほとんど変わらなかった。強いて言えば流行が変化し、婦人たちの出立がそれに乗っとたものになっているくらいだろう。

「どうかした?レスリ」

「……思いの外、平穏な様子で拍子抜けしただけだ」

 不協和音多発という、未曽有の大事件が起きたのだ。パリ市民たちはきっと、家の隅で震えあがっているのだろう。そう考えていた。だが実際、彼らは各々変わらず自由気ままな生活を送っているように見える。まるで、一連の事件は自分には関係ないというように。

「……だよねえ」

 街を眺める、青い瞳が細まる。決して微笑んでいるというわけではないのは明白だ。諦めの中にふんわりと憎悪を宿したその眼光が、いやに印象的だった。

「……アシル」

 何だい、レスリ。と穏やかな声が返ってきた。

「らしくない」

 一瞬目に入ったその瞳は、どこか鉛のように濁っていた気がした。だがすぐに、普段の透き通った宝石のような色に戻る。

「あはは、何を行っているんだ。面白いなあ」

 行こうか、レスリ。

 アシルはくるりと踵を返す。皺ひとつない滑らかなマントを翻しながら杖をつき歩き始めた。本当に、あの男は何を考えているのかわからない。何か思ところがあるのなら、自分に言ってくれてもいいじゃないか。レスリは心の中で愚痴をこぼす。

 この半年間、協会の楽師がどんな目に当ていたのだろうか。大方想像はつくが、この目で確かめてやらない分にまだ信じ切れない。それほどに突飛な話を、酒場に入るまでの道でアシルがぽつぽつと語っていたのだ。

 手紙にあった通り、パリを中心としたフランス国民の不協和音への恐怖は、楽師たちへの不信不満に変換されていった。一部の国民は募っていく不安感を、暴力によって解消している者もいるのだとか。まるで魔女狩りじゃないか、ここは中世か。そう言ってやりたくもなったが事実だという。現に一人で出歩いた楽師が何者かに危害を加えられたという報告がいくつもある。

 正式に楽師協会という組織がフランスに設立されもう五〇〇年近くなるが、楽師という存在の正しい解釈は浸透したとは言い難い。

 未だ楽師を魔女や怪物と同一視する新手の信仰や、神の使いだと崇める旧い教団。事実無根の噂や根拠のない迷信がまだこの世に蔓延っている。時代とともに軟化したとは言えど、楽師という存在を邪険に扱うものやそもそも人として扱わない者もいる。協会という国営機関もそんな悪意から楽師を守り、正しい存在意義を提唱するために設立されているはずなのだが、その役割が十分に果たせているとは言えないだろう。

 国から与えられるのは最低限の保証のみ、一部の民に蔑まれ、頼れる者と言えばお互いだけ。一連の不協和音の最大の被害者は楽師なのだろう。

 不当な扱いであるのは、当人たちがもっと理解している。逃走や反発という手段はあれど実行しないのは、この現代では科学技術も戦術も発達している。昔は知らないが、僅かな勢力で国委たてつこうというものなら、一瞬で返り討ちにされてしまう。

 二人は並び、行き交う人々の間を潜り抜けるように進む。

 ふいに誰かのさあ焼き声次第にその声は、耳を澄まさずとも聞こえ始めた。道行く人々がこちらの方をチラチラと視線送り、小さな声で話しているのがわかる。

………楽師が

………あの事件は本当は……

………消えてしまえばきっとフランスは平和になるのに

 楽師に対する文句の数々だった。彼らのひそひそ話の話題は十中八九アシルだろう。

 協会の楽師は皆、自身の所属支部を示す腕章を身に着けている。レスリは業務の性質上使用することは無いが、アシルの腕には品のいい焦げ茶色のシルクが巻かれている。

 もちろん腕章の存在については一般的に認知されている。そのため人々は一目で楽師か否かの見分けがつくのだ。いい意味でも、悪い意味でも。

 次々と浴びせられる攻撃的な囁きは、徐々にレスリの神経をすり減らしていった。対してアシルはあっけらかんと平然に道を歩く。

「アシル、裏道を行こう」

「平気だよ……半年前からこんな感じだからもう慣れた。それに……」

 裏道を通れば、何をされるかわからない。

 そう、言った彼の横顔に返せる言葉は見つからなかった。

 昨日宿泊した田舎町では、アシルが腕章を巻いていても邪険に扱うものはいなかった。閉鎖的な田舎であるが為にそもそも中心部の情報が回ってきていないのか、それとも土地特有の文化があったのか……

 だからあんなにもはしゃいでいたのか。昨夜の行動が腑に落ちた。

「あ、」

 思い布の塊が落ちる音がした。見れば、アシルが煉瓦の道に膝をつき、俯いていた。 なんだ、ただ転んだだけか。

 そう手を貸そうとすると、「おやめなさい」とくぐもった声の中年男性が背後から声をかけてきた。

「そこの蝙蝠傘の殿方、ソレから離れなさい」

 レスリは振り向いた。

「……貴方は?」

 すぐそばのカフェテリアで朝食を楽しんでいたのだろうか。カップを片手にビール腹を揺らしながらこちらに向かってくる。顔面の切り込みから覗く淀んだ眼球が、蔑みの視線を送っていることは嫌でもわかる。

「ただ、カフェテリアで朝食を楽しんでいた者だ。地べたに寝転がる卑しい鼠など捨て置きなさい」

「卑しい鼠……?」

 レスリが思わず機器変えると、そうだとも、と男は嘲る。

「奴らがいるからこそ、このパリには不協和音が止まないのです。不協和音事件について貴殿の耳にも入っているはず……だが、もしやご存じないようで、これは失敬」

「原因が楽師とは、何を根拠に?」

「根拠?手品じみた芸ができるのが何よりの証拠だろう」

 調律のことを言っているのだろうか。全く話にならない、と頭を抱える。

 さきほど男と食事を措定他らしき婦人も、その輪の中に入ってきた。

「左様でございます。さあ、お気になさらず。知らなかった者は仕方ありません。アナタを責めたりする者はいませんよ」

 その卑しい目はレスリの賛同を待ち望んでいた。彼だけではない、周囲の人々は皆、好奇の眼差しを向ける。

 まるで見世物じゃないか。

 湧き上がる怒りに反抗するように、レスリは手を差し出す。

「アシル」

「……何故、そのような薄汚い男に手を貸す。例え貴方が慈悲深い心をお持ちでも、そのネズミは捨て置きなさい。さもなかればあなたも彼らの手先だと勘違いされてしまいます」

 彼は一瞬戸惑ったような表情を見せる。しびれを切らし、地に触れたままの手を取って引っ張り上げた。

 男は嫌悪感をむき出しにし、顔をしかめる。

「ああ、だから……」

「お気遣い結構です」

 その場の空気がぴたりと止んだ。

「私が何をしようと、私の勝手だ。貴殿には関係がない」

 ゆるやかな憤怒を纏ったその一言は、わずかに語気が強い。だが目の前の男は疑問符を浮かべ、何も理解していない様子だ。そんな姿がレスリの神経をさらに逆撫でた。

「ああ、おかわいそうに。あなたはきっと、楽師に毒されてしまっているようだ。悪いことは言わない、すぐに離れ……」

「黙れ!」

 怒号が、この場の空気をピンにと張った。

「き、貴様……」

 レスリは男の胸ぐらを掴み、怒りのままに叫んだ。その細い腕では、考えられぬほどの力で襟を締め上げる。

「お前に何がわかる!楽師がどんな思いで生きているかわかるか!ああ、知らないだろうよ、お前らは目に見える上辺ばかり見てふんぞり帰っているからな!」

「やめてくれレスリ」

 友人の制止する声など、彼の耳には届かなかった。

「アシル、お前も何か言ってやれ。これは差別だ、お前は声を上げる権利がある」

「……」

「アシル!」

 何度その名を呼ぼうが、彼は一言も発さず、表情を変えることがなかった。そして、一瞬の静寂ののち、きつく結ばれていた口が開いた。

「……黙っていてくれ」

「……は?」

 レスリの頭がそれを理解するのには時間がかかった。だが、言葉の意味は理解できた。だが、その意図を理解することは出来なかった。

 何故だ。

 なぜ、アシルは抵抗することを選ばない。

 理解しがたかった。

「……どういう、ことだ」

「言葉の通りだレスリ。まさか、フランス語を忘れたとは言わせないよ」

 自分にだけ聞こえる声が、ぼそりと呟く。立ち上がったアシルは、膝の埃を払わずに頭を下げた。

「彼の無礼を、どうかお許しください」

 返答はない。その代わり、男は手に持っていたコーヒーを、まるで植物に水をやるかのようにアシルの頭に注いだ。

 まだ湯気のたつその温度の、歯を食いしばり耐えている。それ肌に与える痛みを考えるだけでも腹が煮えくり返りそうだった。

「ふん、楽師め。二度と人をたぶらかす真似はするな。金輪際市民に近づくでない」

 そう吐き捨てると、男は腹の肉を揺らし去っていった。その背に女も続く。

 心臓が怒りの鼓動を打つ。握りしめた拳には爪が食い込み、今にも皮膚を破ろうとしていた。

「……おい」

「いいから黙っていてくれないか、君がこれ以上騒げば僕だけじゃなく楽師協会そのものの存続にに影響が出る」

「……」

 反論などできなかった。

 今、レスリが男を責めたことで一番の被害を被ったのはアシルだったのだ。うっすらと赤くなり出した肌が痛々しい。胸の奥に芽生えた罪悪感が、チクチクと心を刺す。

「……すまなかった」

「理解してくれたならいい」

 いつもと同じ、優しげな声が鼓膜を震わす。柔らかな振動が、胸を締めつけた。