うみうし海底書庫

うみうし(内海郁)の作品倉庫です。

『月夜のノクターン』(5)

月夜のノクターン紹介ページ

https://unnight.hateblo.jp/entry/2021/10/13/172642

 

4話

https://unnight.hateblo.jp/entry/2021/10/13/172642

 

6話

準備

『月夜のノクターン』(6) - うみうし海底書庫

 

 

 グウェンドリンとレスリは、ランプを片手に地下へ続くらせん階段を降りる。屋敷にこんな空間が会ったことなど今の今まで知らなかった。そう伝えると数段下で揺れる金髪は、でしょう、と鼻歌交じりに言葉を返した。

 聞けば、この場所は屋敷が建設されたと同時に作られた場所、らしい。その当たりの情報はあやふやなのだ。別に存在を隠されていた訳ではないのだが、大々的に公表していた訳ではないとのこと。曰く例の姫君がこの場所を教えるまでグウェンドリンも存在を認知していなかったようだ。

 だが、何のために作られたのか誰ひとりとして知らないのだという。いくら調べても記録らしきものは出てこなかったようだ。屋敷とは別の別の場所に置いてあるのか、それとも紛失してしまったのか。どちらにせよ五百年近く昔の文書だ。探す時間を不協和音の調査に当てた方が建設的だろう。

「姫君はこんな湿気った場所をお気に召したとは」

 かつんかつんと、かかとを鳴らしながら、滑り落ちないように慎重に段を降りていく。

「今じゃ大のお気に入りだ。わざわざベッドを運び込んでここで寝泊りをしている」

 私には良さはわからないが。

 そうは言っているものの、女性にしては低い彼女の声は機嫌が良さそうだ。

「そうだ、レスリ。ひとつ頼みをを聞いてくれないか。なに、簡単なことだよ」

 なんだと答えればグウェンドリンは言った。

「リシュを懲らしめてやってくれ」

「ああ一向に構わない」

 間髪入れずの答えだった。前方を歩く彼女は、愉快そうに笑う。

「さてはお前、あいつのことが嫌いだな?」

 もちろん、それを否定するつもりはない。

 リシュ・ブルガン。それが魔王が目をかける姫君の名だ。

 変人、変態、魔王最大の敵……彼女を知るものは皆好き勝手に呼ぶ。レスリと共に楽師学校に入学した同期の一人であるが、在学中に会話することは殆どなかった。彼だけではない。ほかの同期の楽師を含めても、一度でも会話したことのあるものはほんの一握りだろう。と、いうのも彼女がずっと机にかじりつきっぱなしで、交友というものを疎かにしていたからに他ならない。

 なぜならリシュ・ブルガンは、この世の概念そのもの、森羅万象を構成する最小の物質……コードに魅せられてしまったからなのだ。

 学生時代の彼女に昼夜という概念は存在しない。起きているときは食事中でも授業中でも関係なく、四六時中紙面にペンを走らせていた。成績は常に上位であったが、素行そのものは決して褒められるようなものではなかった。不衛生とも言える格好をした小さなマドモアゼルは、ただ机に座っているだけでもよく目立っていたのが記憶に残っている。

 彼女は俗にいう問題児だ。

 だが、その膨大な知識や頭の良さは教師陣をもゆうに上回り、学校を卒業する頃には既にコード研究の第一人者として欧州各地に名を馳せていたのだ。

 前述の通り不良同然のリシュには会話するような友人はおらず、コミュニケーション能力にも致命的な欠落があった。卒業後、生徒は皆各地の協会支部に配属される中、彼女だけはなかなか配属先が決まらず、周囲の教師陣の頭を悩ませていた。

 理由はもちろんその厄介な性質だ。楽師協会という場所は極めて閉鎖的な場所である。下手に扱えば大きな問題を起こすのが目に見えているうえ、一度不祥事を起こせば、協会全体の信用にも関わる。学生時代の小さな世界ではたいした問題では無かったが、広い世界に出ると話は別、という事だ。

 だが結局は教師陣の杞憂に終わり、現在リシュは自身の研究部門を構えて勢力的に活動をしている。しかもいくつもの功績を挙げ、それなりの地位も獲得した。

 その陰には他でもないグウェンドリンがいた。理由は知らないが、リシュの非社交的さと社会不適合な危惧し、学生時代から周囲にいかに彼女が優秀な楽師であるかを触れ回っていたのだ。加えて、彼女との適切な会話の仕方や扱い方なども熟知していたようで、上手く本人を口車に乗せながら今の職に半ば無理矢理就かせた。

 以前、何故そこまでしてあの女に目をかけるのかと聞けば、得意げに笑い「んん、惚れた弱みだな」と返してきた日のことは、昨日のことのように覚えている。

 彼女がリシュに向ける感情が何であれ、特別視しているのは一目瞭然だった。

「お前がそんなことを言い出すなんて珍しい。理由は?」

「部屋から出てこないんだ。ずっと籠もっている。まともに風呂も入らないし、食事も最低限だ。体調不良を起こして医者にかからねばならない状態になる前に、一つ痛い目を見せてやってくれ」

 現在、そこそこの財政難に陥っている楽師協会は、余計な医療費を出すのも辛いのだろう。リシュは自身の限界まで作業をするような性格だ。本人の大丈夫という発言を信じて、倒れてからは遅い。

「返事はしたものの……私がやってもいいのか?」

「君がリシュを傷つけることがか?そんな心配なんて、爪の先ほどしてないぞ」

「いや、軽い折檻程度ならお前がすればいいと思っただけだ」

 一瞬、彼女の背中がしゅんと縮こまった。

「あー……」

 言いにくそうに、口を開く。

「以前、それを試して怪我をさせたんだよなぁ」

「あぁ……」

 ただでさえ人並外れた怪力の持ち主だ。リシュのようなかろうじて芽の生えたような豆粒のごとき小娘に触れようものなら、一歩間違えれば惨事が起きる。

 力加減でも間違えたんだろうな。

 呆れた目で前を降りる背中を見ていると。丁度、ランプの灯りが金具のさび付いたドアを照らしだした。所々浮かぶ赤錆や、湿気で変色した木の板に貫禄すら感じる。

 まるで牢屋じゃあないか。

 そう口に出してしまえば、部屋の中の人物に聞こえてしまうかもしれない。なんせこの中にいる姫君とやらは、怒らせてしまえば数か月単位で口を聞いてくれなくなる卑屈極まりない性分だからだ。

 思い切り拳を叩きつけれてしまえば木っ端微塵に砕けてしまいそうなドアを、グウェンドリンが優しくノックする。

「リシュ、お客だよ。リシュ~」

 返事の代わりにやって来たのは、長い沈黙だった。

 二人はドアの前で三十秒ほど立ち尽くし待ってていたが、なにか返事が帰ってくる気配はなさそうだ。

 結局、返事を待たずにドアノブをひねることにした。

 まず初めに飛び込んできたのは強い黴と埃の匂いと、うっすらと混じるインクの香り。それがレスリの鼻孔を刺激した瞬間、脳裏に浮かんだのは、長いこと放置されていた書庫のそれだった。

 壁一面に立てられた本棚や家具は、引っ越し時に持ち込んだためかどれも新しく見える。だが雰囲気に上書きされているせいで、もとよりその場所にあったかのような錯覚を覚えさせる。

 そしてその部屋の中心の机。一心不乱に机上にかじりついている人物がいた。ぎょろりと無駄に大きい目は爬虫類を彷彿とさせ、白いといえば聞こえのいい日に当たることのない肌は、死人の肌のように生気を感じない。手入れさえすれば艶やかだったろう亜麻色の髪はまるで海藻のようにうねり絡まっている。ペンを握る指先もインクで薄黒く染まり、古びた枝のようだ。

 彼女こそ、この部屋の主。姫君こと、リシュ・ブルガンだ。

「……ああ、もう。どうしてだよ……。くそ」

 一度聞いたら耳に残る癖のある声が、ぶつぶつと何かを呟きつつ眉間に皺を寄せる。

「リシュ、客だよ」

 グウェンドリンがそう呼びかけても彼女は答える様子がない。無視しているのか、それとも本当に聞こえていないのか。ペンが羊皮紙を引っ掻く音だけが積みあがった本の中で響く。

「リシュぅ……」

「問題ない、いつものことだろう」

 悲しそうに眉を下げる魔王の横を通り過ぎ、レスリは彼女の構えるデスクまで歩み寄る。じっと羊皮紙の上を走るペンに目をやる。絶え間なく動くペン先は、ずっと、同じ数式を繰り返していた。どうやら、行き止まりになっている様子。

 その細長い影がか細い手元に落ちても、顔を上げる素振りはない。

 だが、僅かに肩が動いた野を見逃しはしなかった。

 気が付いていやがる。

 無意識に口元が吊り上がった。これが決して喜びに該当する感情に由来するものではないのは、この場にいれば誰でもわかるだろう。

「やあ深窓の姫君、ご機嫌麗しゅう」

 たっぷりの皮肉が籠った挨拶と共に、レスリの傘は床を二度、叩いた。すると、周囲に散乱していた羊皮紙が突如現れた小さな竜巻に巻き込まれ宙に浮く。頭上を舞うそれらはさながら花吹雪だ。感心したように腕を組んだグウェンドリンはヒュウ、と口笛を吹く。

「い、ひぃっ!?」

 突然の出来事に驚き反り返ったリシュは、バランスを崩し椅子ごとひっくり返る。かつん、と鈍い音を立てながら床に打ち付けられた小さな身体は「何をするんだこの無礼者が!」と手足を甲殻類のようにばたつかせながら喚く。

「無礼とはどちらのことでしょうかね」

 乾燥した髪をかき上げ、リシュは不満むき出しの表情を見せてくる。粘着質な眼孔は目の前の仇敵に向けられていた。まるで威嚇する小動物のそれだ。少しも怖くない。

「帰って来たのかレスリ・モロー……」

 歯ぎしりが耳に障る。だがあえて表情は崩さず、にこやかに微笑み返した。

「遅い、遅すぎるぞ。何でもっと早く帰ってこなかった」

「これでも急いで帰って来たんだが」

「お前くらいなら、その洒落た蝙蝠傘でパリまで跳んでこれるだろうが」

 椅子の脚と見紛う細い足が、レスリの傘を蹴り飛ばそうと振るわれるが、反対に叩き返されてしまう。ひしゃげた猫のような情けない悲鳴が上がった。

「流石に無理だ。流石の私も体がもたない」

「五月蠅い、知ってるぞそのくらい!」

 ならば先ほどの発言は何だ。そう言ってしまえば、厄介なことになるのは目に見えている。今は堪えるときだ、といらつきを押しとどめた。

 こういった奴の対処は、心底面倒だ。

「ああ、やっと分析に一区切りついたのに。お前のせいで集中力が切れてしまったじゃないか」

「切れたのが集中力で良かったな。命の灯じゃないだけましだ」

「はは、いうならばもっとましな冗談にしろ。……その空っぽの脳みそにもう少しマシなおがくずでも詰めてから出直しな」

「お前こそ、私がお前に期待してると期待しているんじゃないのか。旅先で樵と知り合ったら紹介状を送っておこう」

「なんだと!」

 ただでさえねじ曲がった小さな口がさらにねじ曲がる。

「こーらこらこら二人とも、騒ぐにはまだ早い」

 いつの間にか、リシュの背後に回っていたグウェンドリンが二人に割り入る。間を隔たれた両者、は実に不満そうな表情を浮かべる。

「甘いんじゃないかグウェンドリン。飼い主ならもう少し厳しくしつけをしろ」

「は、魔王に飼われるなんぞ御免だ!いつ何時頭から喰われるかわからん!」

「こんなに可愛い子犬なら飼ってもいいんだけど。な、うちの子にならないか?」

「嫌だと言っているだろう!」

 やっとの思いで魔王の手から逃れたリシュは、よたよたと一か所にまとまった床の羊皮紙に手を伸ばす。細い腕が地を這う。

「畜生、お前のせいで羊皮紙の順番がめちゃくちゃに……なって……あれ……?」

 纏めた羊皮紙の束を一枚一枚捲っていく。蛙のようなぎょろりとした目が忙しなくページを追っている。

「ああ、番号らしきものが書いてあったようだから、ついでに読みやすいようにまとめておいた。なーにが順番がめちゃくちゃだ、元々しっちゃかめっちゃかじゃないか」

「黙れ黙れ!」

 それからもぶつぶつと小言を言いながら、リシュは再び椅子に腰かけペンを握る。

「……だが感謝だけはしておく。私の機嫌がいいうちに帰った帰った」

「ほう、機嫌がいいと」

「そうだとも!」

 私は忙しいんだ。さっさと出ていけ!

 しっし、と左手で追い払う仕草をしてくるが、レスリたちは動こうとはしない。そんな二人を無視して、ペン先を羊皮紙に突き立てた。だが、手掴んだはずのペンは手の内をすり抜けデスクの上に転がった。

「……あれ」

 もう一度握ろうとする。もちろん、簡単にすり抜ける。何度も、何度も握り直そうとするが、か細い右手は微かに痙攣を繰り返すだけで動かすことも侭ならない。

「あ、あれ、どうして……ペンが、持てない……」

 なんで、なんでと声を震わせながら右手を左手で潰すように握る。もちろんそれは、何の意味もなさない。

 困惑するリシュを挟むように立った二人は目を見合わせた。

「はぁ、」

「働きすぎだお姫様。休憩も研究の一環だ」

 グウェンドリンは戸惑う小さな肩を叩く。リシュは懲りずにペンに手を伸ばす。

「外野は黙っていろ!私がここまでたどり着くのにどれだけかかったと思っている!後もう少しなんだ、もう少しで、何かが……」

 リシュは楽師協会に配属されてからずっと、コードに関する研究を行ってきた。昨日、酒場へ向かう道にてアシルから聞いた話によると、今はフランス中の不協和音の分析を一手に担っているらしい。今まで起こったものすべてだ。ただでさえ脆弱な体なのにずっと地下に籠もりきりで、この様子であるならグウェンドリンが心配するのも無理はない。

「私は知ってるよ、君が頑張ってること。もう少しこのままじゃ石化する前に過労死してしまう」

 グウェンドリンは暴れる小さな体の脇に手を差し込むと、軽々と肩に担ぎ上げる。

「手が動かないんじゃ作業しても進まない。休憩だ休憩」

「いやだ、もう少しで終わるのに!」

「レスリが帰ってきているんだ。久しぶりに同期で集まって話すのも悪くないだろう、な?」

「私には話している時間などない!」

 その言葉を耳にしたレスリは、へえ、と呟く。

「だが、さっきから進んでいない様子じゃないか。一度その煮詰まった頭を冷やそうじゃないか」

「ほーんと、レスリは余計なことを言う。こらこら、暴れるんじゃない」

 じたばたと暴れるリシュの胴をがっしりとつかみながら、グウェンドリンは出口へのドアに向かった。レスリもその後に続く。

「下ろせ、下ろせ!」

「あーあー。暴れないでおくれよ。ほら、レスリ」

 形のいいアーモンド型の目が、ウインクで合図を送る。

「はいはい。魔王様、仰せのままに」

 ちょうど部屋から出た瞬間、レスリは石突きで床を軽く叩く。すると、ゆらりと吹き始めた風に乗って、三人の体が宙に浮いた。

「……ひ!」

 傍若無人な深窓の姫君にも、苦手なものが存在する。それは、高所と疾走感。何事においても怖いもの知らずの彼女が、唯一恐れるもの。

 肩に乗せられたリシュの体が縮こまる。

「やったね、私これ好きなんだ!」

「やだ、わかった。わかったから。休む、休憩する……だから」

 レスリは微笑んだ。すっきりと、清々しい。あまりにも晴れ晴れとした表情だ。

「駄目だ」

 突風が吹き始める。

「うわ、やだああああ!」

 まるで、ひな鳥が喉から絞り上げたかのような悲鳴が、螺旋階段に響く。