うみうし海底書庫

うみうし(内海郁)の作品倉庫です。

beast of the Opera 二〈怪人〉


 二〈怪人〉


 翌日、セザールが学院内図書室に訪れると、席にロジェがいた。じっと本にかじりつき、頭を抱えている。読んでいるのは初歩的な製本作業に関する教本だった。なかなか動かないペン先を見るに、問題に躓いているのだろう。
「どうしたのロジェ」
 小声で話しかけると、それに気がついたロジェは天の恵みか、と言わんばかりに表情が明るくなった。
「セザール……!」
「勉強?どこが解らないの」
「手伝って暮れるの?じゃあ、えっと、まずはここで」
 彼の言う場所を一つづつ、ページの先頭から順番に説明していく。時間を要したが、問題は徐々に解かれていった。
 最後の一問を解ききると、ロジェは気持ちよさそうに伸びをする。
「あー……、やっと終わった。君が来てくれなきゃ、永遠に終わらないところだったよ。何かお礼をしなくちゃ」
「珈琲一杯で頼むよ。あと、君が気に入った小説の題名をいくつか」
「わかった。じゃあ早速カフェテリアに……」
 二人が同時に立ち上がると、遠くからなにやらひそひそと話し声が聞こえる。二人は動きを止め、そのささやき声に耳を澄ませた。
「なあ、本当か。見間違えたんじゃないだろうな」
「ほんとだって!妹が嘘を吐くような奴じゃ無いって俺が一番わかっている」
 どうやら、何を見たか見ていないかの押し問答のようだ。ただの些細な口論だ、と安心するとある単語が耳に入ってくる。
「でもなあ……〈オペラ座の怪人〉だなんて、ただの噂話だろう?」
 オペラ座の怪人。その言葉にセザールは思わず身構えた。それはロジェも同じだったようだ。
「〈オペラ座の怪人〉……?」
 以前、耳にしたことがある。何十年も前から流れるパリの噂話の一つだ。オペラ座には建設当初から怪人が住みついており、地下に眠る至宝を守っている、というものだ。
 もしそれに手を出そうと言うものなら容赦なく亡き者にされる。しかも、その姿を見ただけでも一生消えない恐怖の傷を残されてしまうというのだ。
 事実、深夜のオペラ座に侵入した不届き者が姿を消したという事実もある。だが、それはあくまでただの噂話に過ぎない。彼らの話すそれも、きっと見間違いか何かだろう。
 なんだ、ただの噂話じゃないか……
 セザールは、こういった怪談話はあまり興味が無かった。決して、怖いというわけではない。嘘か本当か解らないものに怯えることより、目の前の事実に慄くことが多い身の上だからだろうか。だがロジェは興味津々なようで、目元がきらりと輝き始める。
「……君、好きだねそういうの」
「へへ、実はね。そういうセザールは興味なさそうだ」
「不確かな存在より、目に見える者の方がよっぽど怖いから」
 確かに、と丸い目が細まる。
「でも怪談って、なんだかわくわくしない?嘘でも本当でも、浪漫があるように思えてさ。知ってる?オペラ座の怪人っておかしくなった獣の病の患者の末路だって噂があるんだ。他にも工事中亡くなった作業員の幽霊だとか、あとそもそも人間じゃなくて大昔に改造された化け物の類いっていう説もあるよ」
 生き生きと話すロジェに、苦笑いを返すしか無かった。どこからそんな突拍子のない説が出てくるのだろうかと不思議に思う。
「いいなぁ。もしオペラ座の怪人が獣の病で、それで魔書を作れたらきっと素晴らしいものができるに違いないよ」
「そりゃあ、また……」
 装幀師・フリムラン家の息子らしい発想だ。そうだね、と適当な返事を返そうとすると、セザールはふと昨日の父との会話を思い出す。
「ねえ、ロジェ」
「ん、どうしたのさ」
「……卒業制作さ、あるじゃないか。あの。僕一人じゃ不安だから……一緒にやってみないか。共同製作?分業?だっけ」
 ロジェはぽかんと口を開ける。ただでさえ丸い目は皿のようになった。
「ここだけの話、父さんが許してくれたんだ。君とだったら、やっても構わないって」
「ほんと?ああ、嬉しい。君と一緒に装幀ができるなんて楽しみだよ」
 一人で盛り上がるロジェの背後に、司書がやってくる。彼女はノートで一つ、ロジェの脳天をはたいた。
「いたぁ」
「図書館では静かに」
 静かで圧のある声が、ずんと鼓膜に響く。
 そう言い残し立ち去る後ろ姿に、二人は目を合わせて微笑んだ。

・・・

 大学から少し離れた場所に、〈製本市〉なる商店街が存在する。装幀師御用達の道具や指南書、生体素材までもが取りそろえられている専門街だ。フランス一、いや欧州一と言って良い規模を誇るこの市場は、少し気を抜けば迷ってしまう程に広い。
 セザールは、そんな市場に今日連れてこられていた。
 ロジェは地図を広げ、現在地を確認する。指先で道をつつき、小さな建物を示した。
「とりあえず、はじめは展示会にでも行こうか。確か、数百年物の魔書がメインの企画展をしているんだ」
「へえ、数百年もの……ヴィンテージか。是非見てみたい」
「ああ、しかもただのヴィンテージじゃあない。並ぶのは全て、特別の〈いわく付き〉ばかりだ」
 高揚した声で、ロジェは言った。
 生体を利用する魔書には、どうしても〈いわく〉がついて回る。それは素材となった罹患者が生前に作った逸話だったり、製本された後起こった出来事だったりと様々だ。
 魔書そのものの性能や美しさも重要ではあるが、マニアの間ではその〈いわく〉を重視する者も多い。背景物語があればあるほど付加価値がつく、というものだ。
 オカルト好きのロジェも、どうやらその一人らしい。彼は足早に展示会は行われている施設へと向かう。セザールもその後を追った。
 たどり着いたのは、市の中でも一等古い小さな建物だ。展示会を示す小さな看板が立っていなければ、ただのぼろ屋にしか見えない。
「いやあ、雰囲気がすごい」
「ワクワクしてきたなぁ!早く入ろう」
 ロジェに連れられる形で建物の中へと入る。古びた木の扉の向こうは薄暗く、洋灯の明かりが数点点って居るだけだ。どうやらあまり繁盛はしていない様子で、自分たち以外に観客はいない。
 壁際には数十点の本が、丁寧に硝子ケースに収まり、小さな蝋燭に照らされていた。
 セザールは試しに一番端の魔書に目をやる。表紙は菫色に染められ、同系色の宝石よって彩りを重ねられていた。一番目立つ表紙の上部には金色で〈Carmilla〉と美しい書体で綴られている。
 綺麗だ。
 貴婦人を思わせる品のある装幀を、覗き込む。
「気になりますか」
 背後から冷たい女の声が聞こえる。思わず振り返った。立っていたのは、セザールよりも少し年上くらいの細身の女性だった。黒いドレス姿はこの会場の雰囲気にぴったりで、一目で職員だとわかる。
「そちらは丁度、一〇〇年前に作られた魔書になります。〈ベルクグール病〉だった素体の女性は、大変美しい貴族の姫君だったそうです。ですが生来の残虐な性格と、圧政により最後は処刑されたのだとか」
 切れ長の目をにっとつり上げ、女は言う。
「へ、へぇ……他の本についてお聞きしても」
「もちろん。この本は、自身を魔術師と偽ったペテン師の。これは港町に流れ着いた人魚の。そしてこれは、極東の島国で作られた巻物型の書物です」
 好きに手に取ってくださいね、と女は言うと元いた部屋の隅へ戻った。
 照明のせいか、内装のせいか、それとも本のいわくを知っていたせいか。この空間におどろおどろしい空気を感じはじめる。
 最初こそ熱心に本を眺めて居たものの、背景を知れば知るほど胸の奥が疼くように痛んだ、暫くたえてものの、限界を迎え一人部屋の隅の椅子に腰かけた。楽しそうに展示を観るロジェへ、羨望の眼差しを向けることにしかできなかった。
 重いため息を吐く。彼の体調を心配してか先ほどの職員がやってきた。
「気分が悪くなられましたか、どうかご無理はなさらず」
 ……すみません。そう返すと職員は優しく語りかけてきた。
「学生さんですか?確かこの時期は卒業制作の予定を立てに来る頃ですものね。今やって丁度よかった」
 聞けば、彼女もまたルリユール学院の卒業生だという。だが装幀師にはならず、蒐集した魔書を展示する活動を行っているのだとか。
「ご一緒している彼は、〈いわく付き〉の魔書に随分と興味がある様子ですね。ふふ、あんなに目を輝かせて。展示の甲斐があります」
 職員の瞳が、僅かに細まった。
「私たちが展示会を開くのは、魔書とは、一体どういったものなのか多くの人に知って欲しかったからなんですよ。ほら、最近需要が増えているじゃないですか、もっと安く手に入りやすい本をたくさんーって」
 先日、ロジェが言っていたことを思い出し、セザールは頷いた。
「でも、私はそれでいいのかなって思います。今じゃもう習知の事実ですけど、あの本の素材は元は私達と同じ人間ですから。それの数を増やせって意味をもう一度考えて欲しくて」
 職員の視線は、ぼうっと天井を眺めていた。
「……でも、いかんせん建物のせいかなかなか人が来ないんですよ。もしよければ、学生の友人にも声をかけてくれませんか?入館料、安くしておきますよ」
「……わかりました」
 展示を見終えたロジェがやってきた。
「いやぁ、最高だね。曰く付きの魔書はいつ見ても楽しいや。あれ、この方は」
「この展示会の主催者の方だそうだ」
 職員は立ち上がり、スカートを摘まんでお辞儀する。
「なるほど!展示品、色々見させてもらいました、勉強になります」
 丁寧な礼をするロシェに、職員は微笑みかけた。
「いえ、学生の皆さんの役に立てたのなら嬉しいです。小さな展示会ですが、楽しんでいただけたのなら何よりです」
「はい、おかげさまで!セザール、店を周りに行こう」
 軽い足取りのロジェは、すたすたと出口へ向かう。職員に礼をすると、その後にセザールも続いた。
 外に出ると、刺すような冷たい日差しが二人に降り注ぐ。暗い空間に慣れていた目が横に細まった。
「あはは、眩しい。セザールは展示会どうだった?何か着想になるようなものはみつかった?」
「……いいや、観るので精一杯でだったよ。でも勉強になった」
「そっかぁ」
 前を行っていたロジェは、くるりと振り向き口を開く。
「じゃあさ、セザール。僕と一緒にオペラ座の怪人を本にしてみないか」
「え、」
 唐突な言葉に、セザールは口をぽかんと開けた。
「展示会を見て決めたんだ。僕が作りたいのは人々を震え上がらせるような、狂気的な魔書だ。装幀や逸話だけじゃなく、中身もうんと刺激的なものにしたいんだその題材として、オペラ座の怪人を採用みたいんだ。きっと、最高の出来にあるに違いない」
「うん、君の言いたいことはなんとなくわかった。でも怪人を本にするって、一体どうやって」
 その言葉を待ちわびていたと言わんばかりに、ロジェは口角をつり上げる。
オペラ座の地下に行くんだ。そして本人から話を聞く」
 地下、とセザールは思わず口にした。
「噂だと、オペラ座の怪人に見つかれば殺されるんじゃないのか」
「大丈夫だって、もしもの時にはコレ、だからさ」
 ロジェは右手の人差し指を、引き金を引くようにくいっと折り曲げる。何を言わんとしているか察したセザールは、これ以上の抵抗は無駄だと悟り頷いた。
「ね、いいだろう。ねぇ」
「……わかったよ。ただし、時間以内に見つからなければ帰る、いいね」
 その言葉にロジェは笑顔で飛び跳ねた。
「やった、約束だからね」
「はいはい」
 セザールはロジェを親友だと思っている。だが、この無鉄砲気味で危険知らずな姿勢はどうにも苦手だった。悲しいのは、それを差し引いたとしても彼を信頼してしまっている自分自身がいることだった。

……

 オペラ座の地下、知らなければ見過ごすような細い路地に、古びた木製の扉が一つ佇んでいる。この場所を知っているのはこの世でたった三人だけ。決して大きいとはいえないそれの向こうには部屋があった。
 支配人としての仕事を終えたペトロニーユは、両手に紙袋を抱え、部屋の扉を叩く。古びた蝶番が音を立てて動くと、中からエステルが顔を出した。彼女は、差し出される袋を観て目を丸くする。
「まあ、どうしたのその荷物」
「君のために見繕ったドレスだ。来週の記念公演の時に来てもらうためのね」
 ペトロニーユは袋の中のドレスをテーブルに広げる。ゆうに十数着はあるだろう。流行を取り入れた煌びやかな造りで、使われる素材はどう見ても高級なものだ。
「ドレスなんて、一着あれば十分よ」
「滅多に自分で買い物をしないからね、加減を間違えたかもしれない。さあ、そこに立って。緑?焦げ茶?白も悪くない。あぁ、迷ってしまうな」
 手にしたドレスを代わる代わるエステルにかざしながら、ペトロニーユは鼻歌を歌う。
「どれでもいいわ、本当よ」
「君はファッションというものをわかっていない。悩むのも楽しみのうちなんだ」
「悩むべきなのは貴方じゃ無いと思うけど」
「もう、少しは黙っていて。うん、やはり君には黒が似合う」
 エステルに手渡されたのはシルク製の黒いロングドレスだった。他とは違う意匠の少ない簡素な形ではあるが、それがより一層、素材の良さを引き立てている。
「綺麗ね」
「これを纏った君は、もっと美しいだろう。ねえ、来て見せてくれないか」
 エステルは「わかったわ」と頷く都、鏡台の前へと向かう。
「本当、ペトロニーユは私に服を与えるのが好きね。お人形遊びが好きだったあの時から変わらない」
「何年も昔のことだ。あまり揶揄うのはよしてくれ」
「貴方にとっての昔は、私にとっての最近よ。私が何百年生きていると思っているの」
「ああ、君の悪い癖だ。そうやってすぐに年齢を盾に使う」
「だって本当のことよ。私が貴方くらいの年齢の時なんて文字を読むどころか、言葉らしい言葉も話せなかった」
 背中のボタンを閉めたエステルは、くるりと振り返る。照明を反射する闇色のスカートがたおやかに揺れた。
「着てみたけれど……大丈夫?どこかおかしなところはないかしら」
 舞うように、くるりくるりと身を翻して見せる。
「美しい。まるで黒蝶だ。お祖父様が地下の籠に閉じ込めたがるのも無理はないよ」
「こら、ペトロニーユ」
「ははは、冗談だよ。じゃあ最後に、此方を」
 ペトロニーユは荷物の中から、平たい木箱を取り出した。深いブラウンに金の仮面の紋章。エステルには見覚えがある。
「これは」
 丁寧に蓋が開けられると、中に入っていたのは一枚の仮面だった。装飾を控えた無駄のない白の仮面は、丁度エステルの右の顔にぴったりに重なる。
「今使っているものは古いだろう。これを機に新調しないか。私が最も信頼する職人に作らせたものだ。着け心地は保証するよ」
「まったく、いつの間に寸法をとったのやら」
 仮面を手渡されたエステルは、今身につけている仮面を外し、すぐさま新たな仮面を顔に添える。軽く首を回し、触感を確かめた。
「どう?」
「ひんやりとしている。顔にはぴったりよ」
「それは良かった」
 ペトロニーユが満足そうな表情を浮かべると、背後の時計が鳴った。時刻は午前〇時を示している。
「見回りの時間だわ。行かないと。貴方も明日仕事なんだから早く寝ましょうね」
「はいはい。じゃあ、来週の記念公演楽しみにしているよ」
 ペトロニーユはエステルの手の甲にキスをすると、部屋をあとにした。
「まったく、どこであんなものを覚えてくるんだか」
 くすりと笑うと、普段着に着替え愛用の得物を手に取った。

・・・・

 街灯の点る石畳の上に、二人分の影が落ちる。辺りは薄暗く、彼ら以外に人の気配はない。懐中時計の時刻は丁度、深夜零時を回った。
 確かに、怪談話の類いは怖いと感じた事はない。だが、実際に夜闇を歩くのは別だ。痺れるような緊張が、全身の神経を震わせる。
「ねえ、やっぱり引き返さないか。いくらなんでも夜は、その、危ないと思うんだ」
 片方の人影、セザールは少し前を歩くロジェに問う。
「でも昼だったら人が居て忍び込めないだろう」
「もし、怪人が実在して襲われでもしたらどうする」
「もちろん、対策はしてあるさ。その時は……」
 ロジェは鞄の中から一丁の銃を取り出した。一見普通の銃だが、持ち手の部分に見覚えのある綴りが見える。
ブラッドベリ製の小型拳銃……?嘘だろう。世界に五丁しかないって」
 金属製の銃弾を用いる代わりに魔力を抽出し発射する、ブラッドベリ社の逸品だ。リロードを必要とせず、魔力が続く限り連射できるという逸品だ。だがこれが製作された直後会社が消えたせいで、試作段階の数丁しか残されていない。
「うちで保管していたんだ。パパの部屋のショーケースにしまってあったよ。けっこういけていると思わない?」
「お父上の?」
 フリムラン家が所有する魔術道具と言えば、価値は数百万はくだらない。歴史的価値のあるものばかりだ。しかも投手である父の私室から、と言えばその価値を想像することはむしろ難しい。
 その貴重さを説こうとしても、ロジェは首を傾げるだけだ。遺産級の品々に囲まれて育ったせいで、感覚が麻痺しているのだろう。それどころか、他にも持ってきたよ、と誇らしげに言うのだ。
「……ああもう、絶対に壊すんじゃないよ。それに、時間が来たら直ぐ帰るからね」
「はーい」
 ロジェの後ろをため息交じりについていくと、オペラ座の裏へとたどり着く。曰く、ここが最近怪人が目撃された場所だそうだ。
 ロジェは小さな灯りを頼りに地面を眺める。地下へ向かうための出入り口を探しているのだ。セザールも一緒になって探し回る。
「……あった」
 植木の向こうに、人一人入れるくらいのマンホールを見つけた。よく見れば、最近開けたような痕跡もある。
「……ここに入るつもり?」
「もちろんだよ」
 重い石の蓋が外される。現れたのは地下へと続く長い縦穴。それを覗き込んだセザールの肌には鳥肌がたった。ロジェは洋灯を腰のベルトに下げ、軽い身のこなしで地下へ続く暗黒へと挑む。はしごと呼ぶには粗末な、壁に打ち付けただけの鉄の足場を伝い、降りていく。
「ロジェ」
「大丈夫だって。運動神経はいいから、いざとなったら君を抱えて逃げるよ」
 降りながら話すせいか、徐々にその声は遠ざかっていく。セザールは観念し、彼の後を追うようにはしごに足をかけた。
 かつかつかつ、と軽快な靴音だけが狭い縦穴にこだまする。ふと頭上を見上げると、黒い視界に丸くくりぬいた夜空が浮かぶ。
 親の言いつけを破る罪悪感と、道の空間への恐怖がふつふつとわき上がる。震える手に力を込め、無心で地下へと降りた。
 もう一〇メートルほど降りた頃だろうか。足元で、小さな水の跳ねる音がした。
「おーい、セザール。足がついたみたいだ」
 脳天気なロジェの声に安堵していると、セザールの足も硬い地面へと触れる。無駄に力めばつるりと滑る、湿った石畳だ。明かりはあるが、用心して足を運ばなければ痛い目に遭うだろう。
「うんうん、雰囲気は抜群!」
「雰囲気って……もう少し声を落として。誰かに聞かれているかもしれない」
「へへへ、そうだな。でも、怪人が聞いていたら探す手間が省けるのに」
 ロジェは冒険譚の主人公気取りで洋灯の明かりを掲げる。視界に広がったのは、石と木材で固められたトンネルだ。二人並んで十分歩ける歩道に、その倍以上の幅の水路。天井までの高さはセザールを縦に二人分重ねても余裕がある。半円形の形状をしているせいか、微かな音でも良く響く。
「とりあえず、上流に進もうか」
 ロジェは進み出す。その足取りは、心なしか先ほどよりも軽い。それとは対照的に、セザールの足は鉛をくくりつけたかの如く重かった。
 暫く歩くも、景色は変わらず、ただ同じ光景が繰り返されるだけ。最初は浮かれていたロジェの足取りも、徐々に静かになっていく。見れば退屈そうにあくびしていた。
「なあセザール。何か見つけた?」
「幸運なことに何も」
「ははは、だよねぇ」
 何も起こらない安心感のせいか、だんだんと軽口を言い合うようになってきた二人。だが平穏もつかの間、耳につんざくような悲鳴が一つ聞こえた。どうやら声は男性のもので、一人のものではない。少なくとも複数人はいる。
 つい先ほどまで緩んでいた神経が、きりりと引き締まる。
 嫌だ、助けて。
 悪かった。
 見逃してくれ。
 その叫びは背後からこちらに向かって迫ってくる。セザールたちの心臓はどくりと大きく鼓動し、脚はバネのように跳ね駆けだした。その間にも叫びは続き、それはいつしか断末魔となっていく。
 精神に電流が走る。びりびりと体が震えた。逃げても逃げても、背後の絶叫は止まることはない。
「ロジェ、ロジェ!どうしよう……」
「わからない!とにかくこの場所から離れなきゃ……」
 直後、目の前に分かれ道が現れる。ロジェはセザールの腕を引いて左へと曲がった。走り込んだ先は枝分かれした通路いくつもあり、二人はその一つに身を隠す。洋灯の明かりは落とされ、目の前は真っ暗になる。
「お、驚いた……」
「何だったんだ今のは」
「わからない。でも、僕たち以外に誰か居るのは確かみ、」
 遠くから、ひたり、ひたりとこちらへ迫る。思わず、口元を押さえた。足音だとうと思えば、同時に何かを引きずる音も聞こえる。それが何かと想像しただけで、全身に鳥肌が立つ。恐怖で心臓が飛び出してしまいそうだった。
 二人の心臓の音だけが、不自然に脳に響く。息をひそめ、それが過ぎていくのをじっと待つ。気配が過ぎ去ると、ふっと安堵の息を吐いた。
「……なんだ、今のは」
「きっと、オペラ座の怪人だ」
 そう言ったロジェの声は、微かに震えていた。
 怪人は、オペラ座の至宝を狙う者を探し出し、殺す。先ほどの悲鳴の主達も、その至宝を探しにやってきたのだろうか。
 もし自分たちが見つかっていたら?
 想像したセザールは身震いする。
「駄目だ、帰ろう。見つかったら僕たちも殺される」
 暗闇の中で、ロジェが頷くのを確認するとセザールは通路を見渡した。少しづつ夜目が利いてきたようで、輪郭程度なら空間を把握できるる。
 先ほど、自分たちの横を通り過ぎた人影も見当たらない。今しか無い、そう歩き出そうと踏み出すが、袖をロジェに引っ張られる。
「これを使おう」
 彼は鞄から、一冊の本を取り出す。美しい金と宝石に飾られた書物。魔書だ。彼が持ってきたと言っていた、道具の一つだろう。
「少しの間だけ、不可視の魔術が使えるんだ……お互いも見えなくなってしまうのが難点だけど、怪人に見つかるよりきっと」
「……わかった」
 表紙にロジェの手がかざされた。同じようにセザールも手を添える。軽く目を閉じ、指先に意識を集中させ、魔力を流し込む。すると表紙がぼんやりと淡く光り、描かれていた文字が浮かび上がった。〈Gyges〉と描かれた金の文字がふわりと一瞬現れると、ロジェが抱えていた本ごと姿を消した。
「ロジェ……?」
 辺りを見渡してみると、直ぐ隣から彼の声が聞こえてきた。
「ここにいるよ。君の姿も見えない。成功したみたいだ」
「よかった。じゃあ早く外へ」
 透明になった二人は、隠れていた通路から身を乗り出す。気配ひとつないことを確認すると、ほっと胸をなで下ろした。息を潜め、元来た道を歩き出す。
 なるべく足音をたてぬよう進み、先ほどの分かれ道までやってきた。あとは真っ直ぐ進むだけ。張り詰めていたセザールたちの空気も僅かに緩んだ、その時。
 湿った石畳に脚をとられ、セザールの体が傾く。運悪く、体を受け止めようとしているのは、冷え切った水路だった。
 ロジェ……!
 友い助けを求め手を伸ばすも、その存在を視認できない。ただむなしく手は空を切るばかりだ。ロジェもまたそうだった。
「セザール!」
 ロジェが声を上げたときには既に、セザールの身は流れる水の中に叩きつけられていた。凍てつく水の中、這い上がろうと手を伸ばすも、水を吸った服が底へ底へと誘う。
「た、たすけ」
 僅かに水面から出ていた口先から水が流れ込み、言葉は塞がれた。空気の無い水の底へと引きずられたセザールの意識は徐々に、遠のいていった。

・・・

 外套を纏った女が一人、地下通路を徘徊する。掲げていた得物は、洋灯の光を受けて、濃い鈍色に揺らめいている。
 今日も数人の侵入者を捉え、然るべき対処を行った。だが、何故か今日は胸騒ぎがする。こういった嫌な予感は存外当たるものだとエステルは知っていた。
 嫌だわ。早く見回って帰ってしまいましょう。
 足早に自室への道を進むと、上流何かが流れてくるのが見える。靴だ。しかもよく磨かれた上等な品物。こそ泥が履くようなものではないと、素人目でもわかる。
「……あぁ」
 眉間に小さく皺が寄る。嫌な予感が的中した。
 水路の上流へと駆けると、水路の浅瀬に一人の青年が横たわっていた。
 顔はすっかり血の気が引き、呼吸も浅い。このまま放っておいても勝手に息絶えるのは時間の問題だろう。
 そっと青年の頬に手を当てる。冷たい。まるで氷だ。
 またか、とエステルは肩を落とした。
 この水路は、パリ中の河川に繋がっている。川でうっかり足を滑らせた若者が、何度か地下に流れ着いてきた事があった。彼もまた、その類いだろう。
 軽く声をかけ、意識の有無を確かめる。返事が無いことを確認して、青年を水路から引き上げた。限界まで水分を吸った衣服は重く、体温を奪っている。上着を捨て、自身の外套を巻きつけた。
 かろうじて、まだ呼吸はしているようだ。だが介抱してやれるほど、エステルには余裕がない。
 適当な場所まで運んで、地上に転がしておこう。それでどうなるか、彼の運次第だ。
 予想以上に冷たく重い体に、腕を回したことを僅かに後悔したその時だった。ふと、髪に何かが触れる感覚がした。思わず体が跳ね、視線を映す。
 青年が目を開けていた。ぼんやりと虚ろだが、真っ直ぐと此方を見据えていた。
 言葉を失っていると、青紫の唇から小さく言葉が紡がれる。
「貴方は……誰だ」
 今だ意識の定まらない手は、更に先に延ばされる。爪先が髪の間を微を縫い左頬に触れた瞬間、引きつった叫びが上がる。
「……ひっ」
 触れた指先が、びくりと離れる。
 突然の出来事に、エステルは狼狽えた。
 どうしよう、どうしよう、どうしよう。
 オペラ座の地下に入ってきた者は皆、殺さねばならない。そう初代支配人と約束をしていた。彼曰く地下に来るものは皆、悉くエステルの身を危険に晒すものなのだ。と、きつく言いつけられている。彼女自身もそれを理解していた。
 だが、彼は水に流れて来ただけだ。別の場所の水路で溺れてしまっただけなら、殺すのはいやだった。かといって、顔を見られた今見逃すわけにはいかない。ただの迷子を殺すほどの勇気は持ち合わせていなかった。
 エステルが考え込んでいると、青年は再び呟いた。
「そうか……僕は死んだのか」
「……え、」
 動揺した瞳で青年を見やる。夢を見るような、安らかな笑みが浮かんでいた。
「そして、君は天使様か。きれいだ」
 朦朧とする意識の中、彼は続けざまに言葉を紡ぐ。
「しんだ……死んだのか。少し、寂しくはあるけれど、よかった。ああ、よかった」
 どうやら彼は、自分が死後の世界にいると錯覚しているらしい。
「ああ、美しい。やはりここは天国に違いない」
 疲労しきった声はうわごとのように呟く。
 そうだ、彼は自分のことを天使だと思っている。意識が覚醒していないうちに下流の安全な場所に置いてきてしまえば良いのではないか。
 エステルは安堵した。これなら誤魔化すことができそうだ。
「……違いますか?」
「そ、そうです。迎えに来たのです」
 精一杯、天使らしく胸を張る。青年の目が少し煌めいた気がした。
 このままだったらいける。
「天使様、お聞きしたいことがあります」
「は、はい、何でしょう」
「……僕は天国に行くのでしょうか、それとも地獄へ落ちるのでしょうか」
 天国?地獄?
 エステルは口ごもる。知り合いならまだしも、ほんの今、出会ったばかりの人間の死後の行き先など、知るよしもなかった。
「……わかりません、それは神が決めることですから」
「神か……」
 セザールは今だ定まらぬ焦点で天井を眺める。
「天使様。天使様にはお名前はあるんですか」
「え、えっと。名前」
 回答を迷った。ここで名を告げることは、いささか憚られたのだ。
「名前はありません。天使ですから」
「そうですか……きっと貴方なら、美しい名前を持っているかと思いました」
「では、貴方の名前は?あるのでしょう」
 訊ねると、青年は「セザール」と短く言った。
「セザールですね。立てますか」
「は、はい。」
 セザールはエステルの手を借り立ち上がろうとする。だが、うまく膝が伸びきらず、苦痛の表情を浮かべた。
「……痛っ、」
「見せてください」
 傷だらけの手は腹部を指す。服を捲れば大きな青あざができていた。流される最中に何かにぶつかったのだろう。骨が折れてる気配は無いが、無理に動こうとすればそれなりに痛むだろう。
「……セザール、しっかり捕まって」
「天使様……?、うわっ」
 エステルは倒れ込む体に手を回すと、軽々と持ち上げる。女性の細腕ではにわかに信じがたい光景だが、セザールは目を輝かせた。
「すごい、素晴らしい。流石天使様だ」
「あ、あまり顔をつかづけないでください。その、驚きますので」
 エステルは上流へ向かって歩き始めた。
 くすんだ赤の髪が、歩くごとにゆらゆらと揺れる。手から伝わる重さと冷たさに不安を感じながらも一番近い出入り口まで向かった。
 もうじき夜明けだ。また誰かに見つかってはペトロニーユに迷惑をかけてしまうだろう。日が昇る前に彼をどこかに置いてこなくては。だが放るなら、なるべく彼の家に近い場所へ。
「セザール、貴方の住む家はどこにありますか。その、神への身分の確認のため、一応聞いておこうかと」
「たしか、うん、そうだ。パリの南にある教会の、その一つ手前の通りです。わかりますか、天使様」
「は、はい。パリに住んでいて、知らぬ者は居ないでしょう」
 そう、ですよね。と、セザールは黙りこむ。
「天使様、僕の懺悔を聞いてくれませんか」
「……構いません」
 震える唇から、ぽつぽつと言葉が紡がれていった。
 彼は古い装幀師の家系に生まれた青年だった。父親など周辺から将来を期待されている立場に居るらしい。だが装幀の重要な作業、素体の解体が生理的に受け付けないのだという。
 装幀師、か。
 エステルは、紙に隠れた顔を僅かに歪ませる。
「……素体解体の苦手な装幀師がいるのですね」
「そう、なんです。僕はまだ正式にそうではありませんが」
 ぼんやりとした瞳が濁った。
「僕は。僕は死んだ方が良かったんだ。装幀師になる前に死ねたのなら、これで良かったんだ……誰も失望させないで済む」
「そ、そんんことありません!」
 エステルは思わず声を張り上げる。通路を反響する声に、セザールの体はびくりと跳ねた。
「天使様……?」
「あの、いえ、その……少し、昔出会った人のことを思い出したのです。私が昔、一人でいたとき。手を差し伸べてくれた人たちの言葉なんですが。『人は皆、幸福に生きるべきだ』、そう言って励ましてくれたのです」
「なんて素晴らしい人だ。でも、天使なのに人って、少しおかしい」
「あ、はは。そうですね」
 うっかり、身の上を話してしまった。何故かはわからない。きっと、恐らく。僅かながら、セザールに共感している自分がいるのだろう。そうだ、彼もまた外れた者なのだ。
 着々と進んでいたエステルの足は立ち止まる。壁に掛けてある看板を見ると、通りの名が掲げてあった。
「セザール」
「なんですか、天使さ、」
 きょとんと目を丸くするセザールの首元を、軽くとんと叩く。すると、見開かれていた目に瞼が落ち、ゆるりと体の力が抜かれていく。
「どうか、今までのことは忘れていて」
 エステルは小さく囁くと、セザールの体を地上に送り届けた。

・・・

「セザール、セザール!」
 がたがたと体を揺すられ、再び目を覚ました。最初に視界に飛び込んで来たのは悲痛な表情を浮かべたロジェだった。
「よかった……!生きていた、生きていた!」
 ぼたぼたと流れる涙が頬に落ちる。セザールは首の動く限りで辺りを見渡した。どうやらここは、自宅近くの川の辺らしい。空を眺めれば、遠くから薄赤い光が滲むようにに溢れだしている。
 起き上がろうとするが、首と腹部が痛い。ロジェに手を借り、やっとの思いで地面に座った。
「僕、一体どうなったんだ……天使様は……」
「天使様?」
 ロジェは、二人がはぐれてから今までの事について語り出した。
 セザールの姿を見失ったロジェは、通路を追った。だが行き止まりに行き着き、一縷の望みに駆け地上を探すことにしたという。水路の地図を見て、最も流れ着く可能性の高いこの川付近を見て回ったらしい。
「ああ、生きた心地がしなかったよ……ところで天使様って」
「赤い髪の、黒い服を着た綺麗な女性の姿をしていたんだ。僕を神の元に運ぼうとしてくれた」
「天使、かぁ。うぅん、うちの絵画にいる天使の姿とは随分違うけど、彼女が天使と言うならば、きっとそれは夢だ。だって君は死んでない。生きてここに居るのだから」
 そうだね。
 セザールは空を仰いだ。星は少しづつ姿を消し、新たな朝の光が覗く。どうせ家に帰れば、こっぴどく叱られるのだろう。ならば、もう少しこの空を眺めて居たかった。