うみうし海底書庫

うみうし(内海郁)の作品倉庫です。

チャイナブルーの狂騒0-1

 穏やかな夏風が頬を撫でる、穏やかな夜。

 朱色の調度品で整えられた薄暗い客室で、白髪交じりの男が仰向けに倒れている。緻密に編み込まれた金糸入りのカーペットには、一目で致死量とわかる量の血液が広がっ
ていた。

 周囲に漂うは、むせかえる煙草と僅かな鉄の匂い。先ほどまで流れていた一昔前のレコード機は木っ端微塵に破壊され、スピーカーはリズムを失い狂った音階だけを延々と流し続けている。

 この部屋の主は、数多の弟子を育て上げ上海魔術界の祖と謳われた男。カーペットえを赤く染める張本人だ。生前は穏やかな表情が印象的だった彼だが、今はすっかり苦痛に歪んでいる。乳白色に濁った眼球は、零れ出るほどに見開らかれ天上を凝視する。

 現在、このいびつな空間には倒れた男以外に三人の人物がいた。

 寝転がる死体に馬乗りになり、赤く染まった拳を振り下ろす男。闇に浮き上がる程白い肌を晒し、興味深そうにほくそ笑む女。少し離れたソファで恍惚と煙草をふかす緑髪の男。

 先ほどから絶えず殴られ続けた死体の皮膚には青紫の痣が浮かび、一部は突き破られ血と肉片をまき散らしている。彼らはいずれも悲惨極まりない男の死を、特別な感情がなしに眺めている。

「皓珠、そんなもの見ても楽しくないだろう。こっちへおいで」

 黒髪の男・睿玄は誘うように女に問いかける。だが、女……皓珠の熱い視線の先にあるのは半ミンチ状になった死体だ。男に向けるものなど一つもない。

「……皓珠」

 しびれを切らせた男は煙管を食み、小さく息を吸った。顎を軽く上げ、優しく吐息を吐くと、整った唇の隙間から帯のような紫煙が生まれる。帯は命を持ったようにゆらりゆらりと空間を舞い、皓珠の体を撫でるように巻き付く。流石にそれには気づいたようで、白い目眉間に皺が寄った。

 ぱちん。

 軽く指を弾く音とともに、帯は空気に溶けるよう消し去られた。小さな舌打ちが耳に入る。男の口元が微かに微笑んだ。

「可愛い皓珠、そんな糞袋やら犬やらよりも私と遊ぼう」

 皓珠、皓珠。砂糖菓子じみた、並の人間であれば蕩けてしまう程に甘い声。流れるように耳に入るそれにしびれを切らせた皓珠は、侮蔑を孕んだ眼光を注ぐ。

「あいにく、屑に割く時間を持ち合わせていない。屋の隅でくすぶっていろ」

「ははは、相変わらず酔狂だな。嫌いじゃない」

 けらけらと嗤いながら、睿玄は再び煙管に口づける。ほんの一瞬歪んだ表情に築いたものは居ないようだ。

「紅雨。ねえ、紅雨」

 鈴の音を転がす声が死体を潰す青年に囁く。青年は振り上げられた拳をただひたすらに露出した内臓に打ち込み続けるのみで止める様子は無い。粘度のあるグロテスクな音とともに、高価なカーペットを汚している。

 常人なら目を背けたくなるような凄惨な光景も、ユニークなショーにでも見えているのだろうか。皓珠は終始興味深そうに視線を向けている。

「どう、気持ちがいい?それとも気持ちが悪い?是非とも感想を聞きたいな」

 女にしてはやや低く、それでいて鼓膜を撫でるような柔らかな声が、紅雨の鼓膜をくすぐる。

「ね、教えて」

「五月蠅い」

 一瞬拳が止まり、短い一言が空気を震わす。 氷のような静寂が生まれるも、直ぐに肉塊を殴る音は再開する。打ち込まれる力は先ほどより強くなり、飛び散る血肉は皓珠の頬までも濡らした。彼女の微笑みは耐えること無く、むしろより一層破顔していった。

「ふふふ。ごめんなさい、続けて。私の言葉なんか無視していいから」

 紅雨は何も言葉を返さず黙りこくったまま、拳を握り続ける。骨を砕く緩やかな連撃はその後しばらく続いた。ついにぐしゃり、とどめというには過ぎた一撃が、死体の頬骨を砕く。紅雨は深く息を吐くと、立ち上がった。口元をきつく結んだまま、まっすぐな視線を不機嫌そうに煙をむかす睿玄に向ける。

「睿玄、さん」

 見てくれ、みてくれ。こんなにも無茶苦茶だ。

 そう言いたげに、伸びきった前髪の奥から爛々と興奮した瞳が覗く。自分の戦果を誇示するかのように、交互に睿玄と死体を見やる。それに睿玄は嫌悪感をむき出しにし、顔をゆがめた。血液をしたたらせる腕を伸ばしたとき、紫煙と共に罵倒が吐き出される。

「汚らわしい」

 紅雨はびくりと肩をふるわせる。一瞬震えた瞳孔は諦めを写し、後ずさる。

「睿玄さん……おれ、」

「近づくな。これ以上俺視界に入るんじゃない」

 刺すような言葉と侮蔑を含んだ視線に射貫かれ、光を吸い込む瞳は更に影の奥へと隠れてしまった。慰めようと伸ばされる皓珠の手は、空を切る。

 瞬間、この時を待っていた、と言わんばかりに睿玄は席を立った。彼の纏う優雅な煙は、立ち尽くす二人の体を包み込む。

「さあ諸君。一〇年の間我々を苦しめた憎き仇敵……いや、本来の僕らにとっては敵ですら無い。お人好しとは聞こえのいい、恐れを知らぬ愚か者」

 睿玄は動かなくなった肉塊を一瞥し、嘲る。紅雨は憎悪の眼差しを、ハオジュは侮蔑の眼差しをそれぞれ向けた。

「まあいい、とにかくの邪魔者は消えた。我々の理性を食らい、縛っていた呪いも晴れて解かれた。なんて素晴らしい夜だ。なあ、皓珠」

「……はぁ」

 心底不快そうな顔をした皓珠は、顔を背ける。

「つれないな、……ところで、そのドレスの内側にしまってある銃を捨てるつもりはないか。やはり、可憐君にはそんな武器は不相応だ」

「ふん、脳みそは人並みと見た」

 皓珠は深いスリットの内側に手を差し込むと、一丁の拳銃を取り出した。彼女の愛銃WG六六六。細身ながら一撃で頭を吹き飛ばす威力を持つ逸品だ。迷うことなく銃身を持ち上げる。

「喜びな、自惚れ屋の糞男。コイツはこの時のために誂えた新品だ。最初の一発をくれてやろう」

 重々しい安全装置を外す音と共に、紅雨の体が動いた。数歩間の距離を一気に詰め、赤く染まった拳を振りかざす。

 だが、皓珠の顔の数尺前でそれは止まった。見えない壁によって拳は阻まれてた。

 紅雨は、末端からせりあがる痛みに歯を食いしばり、ゆっくりと腕を下ろした。

「いけない子だね紅雨。お前の十八番は私には通用しない。何度言ったらわかるんだ。いいや、そこもまた可愛らしいというべきか」

「……睿玄さんを、傷つけるな」

「邪魔をするな紅雨」

 睿玄は臨戦態勢に持ち込む皓珠を一瞥し、目を伏せる。髪の隙間から蛇のような瞳は血みどろの男に視線を送る。嫉妬の銃口を向けられている本人も、また別の人物を妬ましげに見つめていた。

 新緑色の装束の間から、睿玄もまた銃を取り出す。

「目的は果たした。同盟解消だ。紅雨、お前にもう用はない」

「……睿玄さん」

「哀れっぽい顔をしても無駄だ。死にたくないなら立ち去れ」

「俺は!俺はただ……!」

 紅雨は何かを言いかけるが、諦めるように口をつぐむ。お前さえ、いなければ。吐き出した呪詛はあまりにも小さく、当人の耳には届かなかったようだ。

「ちょっと、私の紅雨を虐めてくれるなよ」

「誰のせいだと思って……」

「喋るな糞犬が!」

 睿玄が大きく杖を振るううと、空間が大きく歪み香の香りが増した。皓珠は霞む目で銃の焦点を合わせて数発、発泡する。それと時を同じくして、紅雨が蹴り折った柱が弾の軌道を遮った。砂埃が宙を舞い、全員の視界を遮る。

「餓鬼、余計なことをするな」

 歪んだ空間の間に亀裂が走る。その隙間から這い出た触手じみた無数の手が紅雨に向けて伸びる。

「う、」

 砂埃に動きを遮られた紅雨は、大きく後ろに飛び跳ねる。後退を続けていると、背中を壁に打ち付けてしまった。

 黒い無数の手たちが紅雨に襲いかかるが、銃声とともに、跡形もなく姿を消す。

「は、ははは」

 紅雨の正面では肩口から血を流して笑う睿玄の姿があった。

「ハオジュ!」

 そう叫んだ瞬間、部屋の窓が割れ、四散する。