うみうし海底書庫

うみうし(内海郁)の作品倉庫です。

【作品紹介】月夜のノクターン

《ストーリー》

文明が花開く19世紀末・ベルエポック。物質を操ることのできる『楽師』と呼ばれる存在があるこの世界に危機が訪れていた。

世界中を旅する楽師・レスリは、故郷であるフランスの異常性を耳にし、急ぎ帰還する。彼を待ち受けていたのは、最後に帰った数年前と全く同じ姿のパリと、悪化した楽師への待遇だった。

レスリは仲間と共に。フランスを襲う異常性・不協和音の謎の解明に挑む。

 

《登場人物》

〈レスリ・モロー〉

 主人公。世界中を旅する楽師。仲間思いだが、やや怒りっぽいい。

〈アシル・ジルベルスタイン〉

 レスリの同期で親友。

〈グウェンドリン・ユペール〉

 レスリの同期。最前線で動く軍人でもある。

〈リシュ・ブルガン〉

 レスリの同期。調律に関する研究の第一人者。

 

《BOOTH》

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《試し読み》

 随時更新していきます。

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【作品紹介】花と散る

《作品について》

『魔性の女』『狂っていく男』『相互不理解』『バッドエンド』

その笑顔は、僕を、俺を、私を、狂わせていく。

ある日現れた、一人の女性に人生を狂わされていく男の物語。『魔性』の正体とは、何故人間は魔性に惹かれてしまうのか。

現代日本を舞台にした、2本の話をまとめた短編集。

 

《収録作品あらすじ》

〈無垢の辜〉

 閉店間際の何でも屋の男・戸津の前に現れた女性・三明。特殊清掃業者を名乗る彼女は、ある孤独死した老人の身元の特定を依頼する。

 戸津は共に行動を続けているうちに、愛嬌ある三明に惹かれていく。時間と共に想いは膨れ上がるも、胸の内に一つの疑念が浮かび上がる。

 たった一つの淀みは、いつしか戸津に疑心暗鬼をもたらしていく。

〈あなたは暗闇の中〉

 とある橋の上へ自殺に訪れたサラリーマン・天白は、突然現れた女性に口づけされる。驚きのあまり川の中へ落ちてしまったが、幸い一命を取り留める。

 退院後仕事を辞めて家に戻ってきた彼の前に現れたのは、あの時口づけをしてきた女性・誘夜だった。画家を生業とする彼女は、天白の「危うさ」に惹かれたといい、絵のモデルになることを提案する。

 そして、二人の短く歪な関係が始まった。

《BOOTH》

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《試し読み》

現在、『無垢の辜』を全文試し読み可能です。

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【作品紹介】チャイナブルーの狂騒。

《ストーリー》

『感情の一方通行』『殺し合い』『抗争』

20世紀初頭。とある邸宅にて一人の魔術師が殺された。犯人は彼にまつわる三人の男女。黒髪の男・睿玄、赤い返り血の食人鬼・紅雨、白い妙薬の女主人・皓珠。

利害の一致で一時的な同盟を組んだ彼らだが、目的を達成するやいなや、殺し合いを始める。強い想いを注ぐ彼、または彼女のために。

それぞれの思惑と本性が交差し、それは周囲を巻き込んだ狂騒へと発展する。

Beast Of The Operaと世界観を共有する、ファンタジー小説

 

《登場人物》

〈紅雨〉

 九龍街の食人鬼と呼ばれる青年。孤独に生きてきた自身の存在を認めてくれた睿玄を慕っているものの、受け入れてもらえないでいる。

〈王皓珠〉

 中華マフィアの女首領であり、殺された魔術師の寵姫。小柄だが自身に満ちあふれた女性。紅雨に対し、異常な執着を抱く。

〈魏睿玄〉

 美しき劇作家の異名を持つ殺人鬼。美しい黒髪の青年の容姿をしているが、それは魔術で偽った姿。皓珠に愛情を抱いている。

 

〈張思偉〉

 睿玄の幼馴染みであり共犯者。睿玄に対し依存気味で、自己肯定感の為に彼の犯行に関わり続けていた。

 

《世界観》

『魔書世界』

 人類の殆どが、魔術と呼ばれる現象を操作できる世界。その中でも、魔術を使えない者がいた。彼らは『獣の病』と呼ばれる奇病を患っており、魔術の代わりに常人ならざる能力を保有する。

 そして『獣の病』の罹患者の体からは、『魔書』という魔術器具が作られる。『魔書』は通常一人では行使できない強力な魔術を扱うことができる、貴重な品だ。その性質のせいか、『獣の病』の罹患者達は、古くから『素材』として命を狙われ続けている。

 この世界では、『魔書』の素材となる『獣の病』の罹患者、『魔書』を製作する『装幀師』、そして彼らを周囲に生きる『魔術師』達の織りなす物語を描く。

 

《BOOTH》

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《試し読み》

現在〈0〉の冒頭を掲載しています。

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【作品紹介】Beast Of The Opera

《ストーリー》

『許されざる恋』『魔性』『百合』『獣の呪い』

オペラ座の地下には至宝が眠り、それを暴こうとすれば、怪人に命を狙われる……そんな都市伝説が囁かれるパリの街。

装幀師を目指す青年・セザールはひょんなことから友人と共に噂を確かめるため、怪人を探しに行く。

水路の先で彼が出会ったのは、赤い髪の天使だった。

装幀師・セザール、オペラ座の怪人エステル、そしてオペラ座の支配人・ペトロニーユの三人の間に渦巻く愛情、殺意、そして獣の呪いがもたらした残酷な過去。

運命に翻弄される男女の悲劇の物語。

 

 

《登場人物》

〈セザール・ラファイエット

 ラファイエット伯爵の息子。装幀師志望でありながら血が苦手で、どこか内気で弱々しい。オペラ座の地下でエステルと出会う。

エステル〉

 獣の病〈蓬莱病〉を患う女性。オペラ座の地下で警備の仕事を任されている。20代半ばほどの容姿であるが200年以上の時を生きている。

〈ペトロニーユ・ガルニエ〉

 オペラ座の支配人。初代支配人の孫娘。エステルの数少ない友人であり、彼女に対して強い思いを寄せている。

〈ロジェ・フリムラン〉

セザールの学友。喧しいが友達重いの心優しい青年。

〈サラ・ラファイエット

 ラファイエット拍の娘にしてセザールの妹。明るく天真爛漫な少女。

〈ベルナール・ラファイエット

 ラファイエット家当主。伯爵の位を持つ。20年以降前に、友人を失っている。

〈グザヴィエ・ジェルボー〉

 パリ・ルリユール楽員の養護教諭

ルノー・パンスロン〉

 パリ・ルリユール学院の解剖学の教授。

 

 

《世界観》

『魔書世界』

 人類の殆どが、魔術と呼ばれる現象を操作できる世界。その中でも、魔術を使えない者がいた。彼らは『獣の病』と呼ばれる奇病を患っており、魔術の代わりに常人ならざる能力を保有する。

 そして『獣の病』の罹患者の体からは、『魔書』という魔術器具が作られる。『魔書』は通常一人では行使できない強力な魔術を扱うことができる、貴重な品だ。その性質のせいか、『獣の病』の罹患者達は、古くから『素材』として命を狙われ続けている。

 この世界では、『魔書』の素材となる『獣の病』の罹患者、『魔書』を製作する『装幀師』、そして彼らを周囲に生きる『魔術師』達の織りなす物語を描く。

 

《BOOTH》

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《試し読み》

現在、序章~三章まで(訳120ページ分)が閲覧可能です。

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beast of the Opera  三〈再会〉


 三〈再会〉


 記念公演当日。オペラ座周辺は、着飾った観衆達でごった返していた。ベルサイユを彷彿とさせる賑やかさとは裏腹に、地下は身が凍るほどの静寂を漂わせていた。ただ、一つの部屋を除いては。
エステル。ああ、エステル。素晴らしい。私の見立ては間違いなかった!」
 正装を纏ったペトロニーユは、飾ったエステルをこれでもかと賛美する。褒められた本人は「やめて頂戴」と赤い顔を背けた。
 香油を含ませ結い上げた髪、夜空を映したかのような絹のドレス。薄く乗った化粧に、胸元に添えられ小さな白い花。くたびれた普段着を着ている時も可憐だったが、着飾れば尚のこと。夜に揺蕩う妖精の姫君にも勝る可憐さだ。
「ああ、すまない。そんな顔をさせるつもりはないん。ただ、あまりにも君が綺麗で……嬉しくなってしまった」
「何故貴方が喜ぶの。変な子ね」 
 エステルの頬が緩む。
 さあ行こう、とペトロニーユは細い手をとった。
「今この時の君は、地上のどんな花よりも可憐で、どんな彫刻よりも美しい。呼宵はペルセポネが地上へ戻るその日だ。なんて素晴らしい、春の始まりだ!」
「春はまだ暫く先でしょう」
 本当に、子どものようだ。僅かに口元が緩むのを自覚する。
エステル、何を笑っているんだ」
「少しだけ、昔を思い出していただけよ……懐かしいわ。貴方はお人形を着飾るように、私におしゃれをせがんでいたわよね」
「あの時からずっと、君が美しく着飾る姿を見たかったんだ。もう、最高の気分だよ」
「よく言うわ……あら、もうこんな時間。公演が始まってしまうわ」
 時計の針は、公演二十分前を示していた。
「ああ、そうだね。さあ、行こうかお姫様」
 二人は地下を後にする。
 通路を抜け地上へ出ると、目に入ってきたのは装飾で彩られたオペラ座だった。麗しき支配人の就任十周年を祝うため、劇場もめかし込んでいる。周りに広がる夜の街のきらめきも心なしか、普段より美しく見える。
「パリ中が貴方を祝福しているかのようね」
「照れくさい冗談はよしてくれ」
 オペラ座の中へ入ると、そこは人っ子一人居ない、がらんどうだった。あらかじめ、人払いをしておいたと聞いたが、改めて目の当たりにすると面食らう。
「……驚いた。本当に人が居ない」
「君のためだけに作った、専用の道だ。私と信用できる職員しか知らない。勿論彼らが君を見つけることもないだろう」
 得意げに目配せすると、エステルを確保していたボックス席へと案内した。五番ボックス席。この劇場の最高級シートの一つだ。
「さあ、入って」
 開かれた扉の向こうには、落ち着いた質の良いソファと重厚なカーテン、いくつかの食事が置かれていた。嗅ぎ慣れない香りもする。
「良い香り。香水?」
「東洋の香だ。簡単な目くらましに使えるらしい。今、私達の姿は、他所からは別の者に見えるんだとか。以前屋敷に招いた商人から試しにと買い取ったものなんだが、なかなかに面白いだろう」
 今夜は人目を気にする必要はないよ。得意げに、ペトロニーユは言った。
 そっとバルコニーの下を覗くと、全ての席が埋まる程の超満員。うっすらと幻想的な照明の中、皆公演を今か今かと待ち望み、談笑している。
 眩暈がしそうだ。久しぶりに大勢の人間を観たからだろうか。無意識に後ずさりする。
エステル。もうすぐ開演の時間だ。こちらにおいで」
「ええ……」
 言われるがままソファに腰かけると、ペトロニーユは膝にそっと毛布を掛けた。
 みるみるうちに照明が落ちていく。観客達は一斉に拍手し、会場は身の震えるような喝采に包まれる。ブザーの音が鳴り始めるとともに、緞帳が上がった。
 演目は『ファウスト』。ゲーテによって綴られた、一人の老人と悪魔の取引を描いた物語だ。このオペラ座の人気演目の一つであり、ペトロニーユのお気に入りでもある。
 ふふ、懐かしい。
 まだ幼い頃「君『のジュエル・ソング』が聞きたい」と何度かせがまれた覚えがある。仕方なく歌ったが、自分の歌はお世辞にも上手いとは言い難かった。粗末なジュエルソングしか聞いていなかった彼女が、最高級の歌声でそれを聴ける様になったと思うと感慨深い。
 ペトロニーユはそっと、エステルの肩によりかかる。
「ずっと、君と一緒に観たかった。君の隣でオペラを観たかったんだ。ずっと昔からの私の夢……十年経って、やっと叶った」
「気分はどうかしら」
「幸せだ。今までの人生でも一等」
 暫く、二人は寄り添うようにしてオペラを眺めた。
 物語が中盤にさしかかった頃。エステルの胸がキリキリと痛み始める。
「……っ」
 手を胸に添え、僅かに屈んだ。同時に猛烈な吐き気が襲ってくる。慣れない人の熱気に当てられたせいだろうか。意識も心なしかぼんやりとしてきた。
 エステルの異変に、ペトロニーユが気づいた。
「……大丈夫かい。どこか悪いところでも」
「少し、緊張しただけよ。休めばきっとよくなる」
「外に出て、新鮮な空気を吸おう。立てるかい」
「ええ、でもいいの?折角席を用意してくれたのに」
 構わない。他でもない君のためだ。と、ペトロニーユはエステルの肩を抱え外に出た。
 二人はボックス席を痕にし、劇場内をゆらゆらと歩く。向かった先は、庭園だった。地下への出入り口があるこの場所は、外から見えない中庭だ。凝り性だった初代支配人の設計によって作られたここは、オペラ座の穴場的名物となっている。普段はポツポツと観光客が訪れ、オペラ座内の逢い引き場所として恋人たちに親しまれている。今夜は閉鎖中のため、二人以外に誰もいない。
 手を引かれるまま花の道を歩く。丁寧に植えられた花壇や、整えられた植木はまるで絵本から飛び出してきたかのようで、エステルの童心は踊った。
 たどり着いたのは、小さな広場。小さな噴水と白いベンチのかわいらしいそこは、先代の支配人のお気に入りの場所だった。
「さあ、座って。少し冷えるが」
「ありがとう……」
 ベンチに腰かけ、ゆっくりと呼吸する。ひんやりと冷たい風に、柔らかな花の香りがふわりと全身を包み込む。吐き気は幾分か落ち着きはじめた。
 軽やかな草木の音だけが風とともに流れていく。
「……ごめんなさい。貴方の記念公演なのに」
「そんなこと。君の体の方が大事に決まっている」
 エステルの肩に、一回り大きなジャケットが掛けられた。
「何か、暖かい飲み物を持ってこさせようか。少しここで待っていて」
「ええ」
 子どもっぽく手を振ると、ペトロニーユは植木の道へと消えていく。一人庭園に残されたエステルは、星空を仰ぎ、深く息を吐いた。

・・・

 慣れない正装に顔をしかめ、セザールは鏡を睨みつけた。今まで数度しか袖を通したことのないタキシードは、ぎゅうぎゅうと体を締め付ける。だが、慣れない衣装以上に彼を苦しめるもがあった。
 ネクタイだ。ネクタイが結べないのだ。
 かれこれ一〇分以上は格闘している。おろしたての素材だからだろうか、滑る上に硬く、上手く手順を不滅としても不格好な形に仕上がるのだ。
 眉間を狭め、「これだから正装は苦手なんだ」と悪態を吐く。
「セザール、準備はできたか」
 なかなかやってこない息子にしびれを切らせたのだろう。部屋の外で待っていた父がやってきた。
「おや、随分と前衛的な結び方だ」
「……すみません」
「構わない。今日は私が手伝おう。次回までの課題だな」
 父はネクタイを受け取ると、慣れた手つきで結び上げた。手本のような見事な結び目に、思わずぽかんと口を開ける。
「二〇年結び続ければ誰でも上手くなる」
 屋敷を出ると、既に馬車が扉を開け親子を待ち構えていた。戸が閉まると、鞭の音と共に、軽やかな蹄鉄の音が鳴り始めた。
「セザール」
「はい」
「怪我はまだ痛むのか」
 その言葉に体が冷える。
 先日セザールは、オペラ座の地下へと潜り込み朝方発見された。その解き、軽傷の範囲だがいくつか怪我を負った。勿論説明を強いられたが、流石にオペラ座の地下に行ったとは言えない。ロジェと口裏を合わせ、酒に興味が出たと誤魔化した。執事や妹には無断外出や怪我を酷く叱られたが、父はその姿を遠くで見ているだけだった。以降、今日まで一度たりともその話に触れられていない。
「もう、大体治りました」
「ならば良い。人間はときおり無茶をしたくなる事がある。仕方の無いことだ。だが、命の危険に関わる物事には細心の注意を払いなさい」
「はい」
 セザールの一言と共に馬車が止まる。空を見上げた。先ほどは茜色に染まっていた空も、すっかり藍色のベールを纏っている。普段無い装飾を施されているからだろうか。照明に照らされたオペラ座は、化粧を施されているかのようだった。
 父に連れられるまま、劇場の中へと入る。オペラ座には劇場とは別に、いくつかのホールがあった。今回はその一つでパーティーが開かれている。
 大勢の人間がこの場に集まっているのかと思うと改めて理解する。耳障りな喧騒に、今すぐにでも泥になりたい気分だ。
「客人として、最良の振る舞いを心がけなさい」
「……はい」
 父は、赤い扉の前で止まると、それを挟むドアマンに軽く礼をした。彼らは礼を返すと、持っていた杖で軽く地面を突く。すると、扉はゆっくりと開いた。
 瞬間、香ばしい料理の匂いと人々の談笑する声が耳に入ってきた。
 中には、既に訪れていた観客たちが色とりどりの衣装に身を包み込んでいる。皆、思い思いの交流を楽しんでいた。
 父とセザールが会場に足を踏み入れると、何人かの目ざとい客人がこちらを捉えた。彼らは一目散に此方に歩み寄り、二人は瞬く間に囲まれてしまう。
 彼らは口々に話しかける。
「これはこれは、ラファイエット伯。ご機嫌いかが」
「またお会いできて嬉しいですわ。私のこと覚えていらっしゃる?以前パーティでご一緒しましたでしょう」
「久しぶりだな、ラファイエット。そういえば、君とは何年も食事をしていなかった。そうだ。このあと我が家に来ないか。腕の良いシェフを雇ったんだ」
 観客たちは我先にと父へと声をかけ、その視線を自分に向けようと必死だ。セザールは思わず父の背中へ身を隠す。
「ははは、皆様お元気そうで何よりだ」
 彼らに対しにこりと微笑む父の姿は、今までになく頼もしかった。
 ラファイエット家は、社交界にも魔書学会に広く名を知られている。それ故家柄に財産、そして身内から見ても美しい容姿を持った父の元には、蠅のように人が寄ってくる。彼らの目的はラファイエット家との繋がりそのものだ。繋がりが強固であればある程、この世界では有利になる。中には愛人の座を獲得しようとする猛者までいるらしい。勿論父が、そういった誘いに乗ることは一切なかった。
 セザールは、人間の醜悪さを凝縮したような姿に、思わず顔をしかめる。一方父は顔色一つ変えず、一人ひとりに丁寧に返事を返していく。
「すまない。今夜は息子を連れているのでね。また後日にさせてもらってもいいかな」
 広い掌に肩を軽く叩かれる。緊張でびくりと体が震えた。
「まあ、彼がご子息で。お父様ににて端正な顔つきをしていらっしゃる」
「以前より大きくなりましたな。確か、学生でしたか。うむ、将来、大物になりそうな顔をしている。きっと、歴史に名を残す魔書を作るだろう」
 向けられる視線に囚われないよう、生返事を繰り返す。
 そんなこと、きっと微塵も思っていないんだろうな。
 質問と言葉の雨が降り止んだ頃、突然照明が落とされる。どよめきと共に人々の視線は、ある一点に集まった。セザールもつられて顔を上げる。
 吹き抜けのロビーの二階、バルコニーにてワイングラスを持つ人物にライトが当てられる。一見すればタキシードを着た男性のようだが、顔つきや僅かな仕草で女性だとわかった。彼女は滑らかな動作で礼をする。
「紳士淑女の皆様、今宵はお集まりいただき本当にありがとうございます。お楽しみ頂けていますでしょうか」
 女性にしてはやや低く、骨に響くような張りのある声。歌手だと言われれば納得してしまうだろう。
 セザールはその姿、以前新聞で目にした事があった。彼女こそ、このオペラ座の主。ペトロニーユ・E・ガルニエだ。まだ若いながら、大火災で痛手を負った劇場を復興させた優秀な経営者であり、希有な美貌を持つ男装の麗人名だ。パリの新聞記者や権利活動家、婦人達の憧れの的でもある。
 人々は彼女へ、盛大な喝采を送る。
「本日は私の支配人就任一〇周年の記念すべき日です。今日までオペラ座が輝けているるのは、ひとえに皆様のご愛顧と応援のお陰。本当に本当に、感謝いたします。また、今夜の演目は『ファウスト』。今最もオペラ座で愛される歌劇にして、私の一番のお気に入りです。開演まで今暫くお待ちください」
 上品な仕草で礼をすると、会場の人々は拍手でペトロニーユを称えた。つられてセザールも小さく手を叩く。
 照明が戻り、ペトロニーユが引き下がると、人々はまた談笑を始める。ぼうっと立っていればまた誰かに話しかけられるだろう。セザールは皿を持って、逃げるように食事スペースへと向かった。
 食欲はないが、何か口に含めば気持ちが落ち着く様な気がした。白いテーブルクロスの上には、無数の食事がこれ見よがしに並んでいる。焦燥から手当たり次第に料理を取り、口へと運んだ。だが勢い余ったせいで、大きなチキンが喉に詰まってしまう。
「う、うえぅ」
 嘔吐き咳き込んでいると、水の入ったコップを渡される。飲め、と言うことだろうか。涙の膜で覆われた視界では、目の前にいいる人物が誰かわからない。とにかく胃へチキンを流し込みたかったセザールは、コップを受け取り一気に飲み干した。
「落ち着いて。ゆっくりと飲みたまえ」
「ゲホッ……ふ、ふぅ……ありがとうございま、え」
 顔を上げ、涙を拭う。視界の先に居たのは、先ほどバルコニーで礼をしていた支配人その人だった。彼女はにこりと微笑みながら、陶器の人形じみた顔を此方に向ける。
「し、支配に……ん?」
「ははは、いい顔だね。驚かせてしまったかな」
 形の良い眉をくしゃりと曲げて笑う。そんな彼女の様子をちらちらと眺めながら、セザールはコップを握りしめる。
「あ、ありがとうございます」
「それはよかった。に、しても、君とはどこかであった事がある気がするな……うぅん、こう、頭の隅にあるんだけど、どうしても思い出せない」
「ペトロニーユ、久方ぶりだな」
 首を傾げる支配人の背後から、セザールの父がやってきた。支配人も「ラファイエットさん」とにっこりと微笑んだ。
「就任一〇周年おめでとう。随分と立派になったものだ。君が幼い頃の時の出来事を、まるで昨日のことのように思い出せるのに。ああ、時が流れるのは早い」
「いえいえ。こちらこそ、お越しくださり感謝いたします。どうですか、調子の方は」
「ぼちぼち、といったところだよ」
 親しげに話す父と支配人の姿を目の当たりにし、セザールは目を丸くする。
「そうだ、これのことを覚えているか。一度だけだが、会わせたことがある。と、いっても二〇年も前のことだが」
「彼が」
 支配人の瞳がこちらをじっと見つめる。深い海の底を思わせる瞳に、どこか狂気じみた色を感じた。
「そうか、セザール。あの小さなセザールか!道理で懐かしい顔だと思っった。私のこと覚えているかい」
 思わず反射的に首を横に振り、すみませんと呟いた。
「無理もない。君たちが出会ったのは、たしか……それぞれ八歳と〇歳の時だったからな。君はまだしも、息子は物心のもの字のついていない赤ん坊だった」
「ふふ、そうだ。そうだった。おっと、いけない。用事があるんだ。そうだ、ラファイエットさん。また今度、お食事でもいかがですか。久しぶりにお話しましょう」
「勿論だ。楽しみにしているよ」
 約束ですよ。
 ペトロニーユは綺麗に一礼すると、踵を返し食事スペースを後にした。
「彼に、似てきたな……」
 ぼそりと呟くのを耳にすると、セザールは恐る恐る疑問を口にする。
「父様、あの、ガルニエ様とはどういった……」
「そういえば、話していなかったな。彼女の父親とは幼なじみであり、学院時代の同級生だった。その縁で、彼女とも幼い頃から交流がある」
「ご学友、ですか?」
「お前とフリムラン家の息子のような関係だ。物心ついた時から一緒だった。学校でも家でもよく遊んだものだ。オペラ座の中庭やガルニエ家の庭園は格好の遊び場だった。まさか、娘を残して失踪するとはな……」
 その言葉を口に死した瞬間、父ははっと我に返る。僅かに目を逸らすと、どこか気まずそうに口を開いた。
「言い過ぎたな、今のは忘れてくれ」
 セザールが頷いたのを見ると、父はウェイターを呼び、皿を片付けさせた。平然と保つ立ち姿から、僅かな動揺が見て取れる。
「もうすぐ公演が始まる。少し早いが、席へ向かおう。あの場所なら、お前の気も少しは休めるはずだ。」
 わかりました、とセザールは返事する。二人は宴会場を抜けて、ボックス席のある階層へと向かう。しんと静まり帰る廊下に、カーペットを擦る僅かな音だけが響いていた。
 劇場二階に位置するボックス席には、まで何度か訪れたことがある。扉に掲げられた金色の板には『ラファイエット』の文字が掲げられていた。創設時、当時の当主がオペラ座との親交があり、多額の融資の返礼として送られたものだそうだ。
 セザールは、逃げ込むようにして扉をくぐる。席に着くと、父に勧められたワインを口に含み、そして、ぼうっと舞台を見つめる。いつ見ても過度に美しい、絢爛豪華な出で立ちだ。その過ぎた装飾は、セザールの視界に映る度、心に虚ろを作った。
 暫くすると、先ほどホールにいた観客が一階席へやってきた。静かだった劇場内はざわめきに包まれた。丁度席が埋まった頃。照明が落ち、人々は歓喜の声を上げる。そして、緞帳が上がった。歌劇『ファウスト』の始まりだ。
 盛大なオーケストラ、舞台で踊る一流の役者たち。光に当たって煌めく衣装。多くの案客達は、それらに驚き、感動しするが、セザールにはどうもそれが理解できない。たいしたものだなぁ。と、感心するのがせいぜいだ。
 何度かオペラを見てきては居るが、どうにもこの空間がは落ち着かない。盛大に鳴らされる楽器に、金切り声のようなソプラノ、ちょこまかと動き回る踊り子たち。人々はそれを美しい、素晴らしいと賛美するが、セザールは共感することができなかった。それでも、不満を顔に出すわけにはいかない。
 体裁を気にして毎度我慢して最後まで聞いているのだ。だが父は、劇が気に入ったと勘違いしたのか、ことあるごとにセザールを観劇につれて行く。残念ながら、父親からの誘いを断るほどの胆力は持ち合わせていなかった。
 ああ、嫌だ。
 セザールは、バレないようにため息をつくと、退屈な時間に身を捧げた。
 公演が始まって数十分経った頃。父がそっと耳打ちした。
「どうしました、父上……」
「顔色が悪い。医者を呼ぶか」
 まさか。素っ頓狂な声を上げそうになるのを堪える。この時間が苦痛ではあるが、体調が悪いということはない。むしろ、元気な方だ。
「いいえ、大丈夫です」
「……そう、か」
 父は、セザールの言葉を信じていないようだった。
「無理はいけない。少し外の空気を吸ってくるといい」
「いいんですか……?」
 願ってもない言葉に、声が裏返りそうになる。
「第一部が終わる頃には帰ってきなさい」
 セザールは頷き、ひとりボックス席の外へ出ることにした。扉が完全に閉まったのを確認すると、こっそりと拳を握りしめる。
 突然降りかかってきた幸運に、セザールの気分は浮かれていた。どこで、どうやって過ごそうか。一人で過ごす、そう考えただけでも胸が躍った。
 人気の無い廊下を、一人歩く。普段は観客でごった返しているためか、不思議な気分だ。あいにくレストランは開いておらず、休憩室への道も何故か封鎖されていた。道ばたで立っている訳にはいかない。頭を悩ませているとふと思い出す。
 父が先ほど言っていた。このオペラ座には中庭があったはずだ。あの場所なら、寒さを気にしなければ快適な時間を過ごせるのではないだろうか。
 意を決したセザールは、中庭に向けて足を進めた。廊下の突き当たりに、両開きの扉が現れた。はめ込まれた磨りガラスの向こうには、ゆるやかな照明と暗い緑が見て取れた。
 ゆっくり外への扉を開くと、ふわりと花の香りが鼻孔をくすぐる。目の前に現れたのは、柔らかな光に照らされた月の都の庭園だ。
 オペラ座の閉塞感に縛られていたせいか、思わず足が前に出る。上空一面に広がる星空にため息を吐きながら、庭園の入り口へ向かった。するとそこには、『立ち入り禁止』の看板が立てられていた。こんな時に限って、とセザールは肩を落とす。
 落胆もつかの間、ゆっくりと顔を上げ辺りの様子を伺った。誰もいない、誰も見ていない。確認するとセザールは立て看板の向こうへ踏み込んだ。
 普段、立ち入り禁止の場所に侵入するなんて考えられない。自分でも、何故実行したのか解らなかった。先日の件で気が大きくなっていたからだろうか。それとも、劇場から抜け出した開放感からだろうか。はたまた神秘的な庭の誘惑のせいだろうか。理由はともあれ、足は進む。引き返そうと思えも、体はどんどん庭の奥へと入っていく。
 常緑樹の壁に色とりどりの花。白い石造りの彫像に、愛らしい石畳の道。人気の無さも相まって、どこか別世界に迷い込んだ感覚に陥った。
 セザールはしばらくの間、景色と新鮮な空気を楽しむ。だが、突如耳に人の会話が耳に入ってきた。侵入がバレたのだろうか。思わず立木に身を隠し、気配の後を辿る。
 庭園の奥からだ。向こうから会話が聞こえた。折角の時間を人と話すのに費やすのは御免だ。そう道を引き返そうとした時、心臓が強く鼓動した。聞こえたのは一人の女性の声。そして脳裏に浮かんだのは、夢で見た儚げな赤い髪。
 あの方の、天使様の声だ……!
 例え夢でも、あの声は鮮明に覚えている。鈴を転がすような、春の若草を風が薙ぐのような声。思い出すだけで夢へ誘われるような声。それが近くにある可能性を自覚したときには、セザールの体は声のする方へ向かっていた。
 行き着いたのは、噴水のある小さな広場だ。高鳴る胸を抑え、花壇の影からそっと顔を出す。白いベンチに一人の女性が座っていた。
 その姿を目にしたセザールは、ぽかんと口を開けた。
 くすんだ赤毛の髪に黒いドレス、月に照らされて浮かび上がる。陶器の仮面。絵画から飛び出したかのような強い色彩に、目が熱くなる。
 夢に見た天使が、そのまま現実へと舞い降りたのだ。
「天使様……」
 思わず、声を漏らしてしまう。瞬間、彼女もこちらを振り向いた。空色の瞳には困惑の色が浮かんでいる。
「あなたは……」
「あ、いや、違うんです。違う、と言うわけではないのですが」
 セザールは姿勢を正すと、恐る恐る女の元に近づく。
「貴方はもしや、天使様ではございませんか」
 女性は、天使?と、どこかばつの悪そうな顔をした。
「一体、何を言っているんですか。人違いです」
 困惑する目が視線を泳がせる。セザールは慌てて失礼を詫びた。
「すみません。困らせるつもりでは……その、夢で見た人と貴方が瓜二つで」
「そう、ですか……それはどうも」
 庭園の照明を映した瞳が、ちらりとセザールを見やる。だが直ぐに伏せられた。それきり彼女は俯いたまま黙りこくっている。僅かな会話のせいで退くに退けない雰囲気になってしまう。
 気を利かせて何か話題を出すべきだろう。あが、あいにくまともな対人経験が少ないセザールは、話を切り出す胆力を持ち合わせていなかった。勢いで話しかけることができたのが奇跡なのだ。
 風が庭園を凪ぐ音が、静かに二人の間を抜ける。その沈黙を切ったのは、セザールの方だった。
「貴方も、今夜の公演を見に来たのですか」
「……こ、公演」
「はい、支配人の就任一〇周年の」
 女は、どこか迷ったように頷く。
「僕もガルニエさんから招待されて来たんです。貴方もですか」
 赤い髪がこくりと揺れた。
「で、ですよね。ちなみに誰かといらっしゃっているのですか。僕は父と……」
「なら、早くお戻りになられては。きっとそのお父様が心配することでしょう」
「はい。ですが、私はあまりオペラの公演が得意でなくて。体調も芳しくなかったので外の空気を吸いに来たんです」
「そう、なんですか」
 再び二人の会話は止まった。どちらも口を開かぬまま、じっと時が過ぎていく。
 不意に、遠くで何者かが呼ぶ声が聞こえた。先ほど話していた、もう一人の人物の声だろう。女ははっと顔を上げ、席を立つ。
「連れが帰ってきたようですので、私は戻ります」
 ドレスを軽くつまみ上げ、走ろうとしたその時、セザールは腕を伸ばしていた。
「待ってください」
 細い手首を握りしめ、じっと瞳を見つめる。大して女の方は硬直し自身の手首とセザールの顔を交互に見つめている。
「……なんですか。は、離して。人が来ているんです」
「せめてお名前だけでも。お教え頂けませんか」
「でも……」
 こうしている間にも、呼び声はこちらに近づいてくる。女は少しの間悩んでいたが、観念したように明かした。
エステル。エステルです。これでいいですか」
 待ちに待った言葉を耳にし、セザールは手の力を緩めた。
エステル……美しい名前ですね。エステル、いつかまた会えますか」
「いいえ。二度とないでしょう。さようなら」
 そう言い残し、エステルは庭園の奥へ消えた。彼女がいなくなった後もセザールはその場に立ち尽くし、速まる脈に踊らされていた。手に残る手首の感触を噛み締め、彼女の名をもう一度呟く。
エステル」
 熱くなる頬を夜風が冷やす。余韻に浸り空を仰ぐと、先ほどよりも大きくなった月がこちらを見下ろしていた。

・・・

 庭園から逃げるように帰ったエステルは、ボックス席のソファで縮こまる。劇場は第二部へ向けての準備中だ。観客達も今か今かと再会を待ち望んでいる。ペトロニーユも、軽食を摘まみながら緞帳が上がるのを待っていた。
 左手首に残る感触に、身震いしながら受け取った毛布を握りしめる。
 先日地下道に迷い込んだ青年・セザールと再会した。まさか、彼が夢と勘違いしているとはいえ、自分の事を覚えていたとは。天使と呼ばれ、名前を尋ねられた。あの時の真っ直ぐな視線が、今でもどこからか注がれて居るいるような感覚がして焦燥が身を焦がす。
 あの時、ペトロニーユが帰ってこなければどうなっていたことか。彼女がいて、本当によかった。
「大丈夫かい、エステル。体を冷やしてしまったのか」
「……少し。でも温かいワインを貰ったお陰で、暖まってきたわ」
「なら、何故こんなに震えているんだ。もしかして、私のいない間に何か……」
 エステルは首を振る。本当よ、少しただ冷えただけ。そう言ってもペトロニーユは信じていない様子だった。
「そうか……?わかった。君の言葉を信じるよ」
「ありがとう」
 心地良いアルトが、すっと耳に馴染んだ。
 照明が落ち、『ファウスト』の第二部が始まる。この部では、マルグリートがジュエル・ソングを歌うシーンがあった。ペトロニーユのお気に入りのシーンだ。心待ちにしている様子が、暗い中でもわかった。
 そしていよいよ、ジュエル・ソングが始まった。
 可憐な歌手の歌声は、硝子のように透き通り、芯のあるあるソプラノだ。美しいマルグリートに観客達は魅了される。エステルもその一人だった。
 ジュエル・ソングを聴くのは何十年ぶりだろうか。ずっとうろ覚えでいたものだから、勘違いしていた箇所も多い。これを平然と歌っていたなんて恥ずかしい。
 思わず顔が熱くなった。それに気づいたペトロニーユは、すぐさま耳打ちする。
「君の歌も十分美しいよ。なんたって、私の初めてのマルグリートなんだから」
「……ちょっと、恥ずかしいじゃない」
「ふふふ、真っ赤になってしまって」
 そんな冗談を交わしているうちに演目は終了。大喝采の中幕は下ろされた。明るくなった劇場から、観客達は次々と席を立っていく。
「素晴らしかった。やはりファウストはいいね。贔屓目なしでも傑作と言える」
「確かに。私も今まで見た物語の中でも一番好きよ」
 本当かい、と細まった目につられて口元が緩んだ。
 部屋のドアがノックされる。ペトロニーユは返事すると、外へ向かった。口調からして、秘書か何だろう。短い会話の後、彼女は部屋に戻って言った。
「すまない、急用が入った。少しの間、ここで待っていてくれないか」
「勿論よ。まだまだ食事はあるし。本でも読んでいるわ」
「ありがとう。じゃあ、行ってくるよ。」
 微笑み目配せをすると、ペトロニーユはボックス席を後にした。
 自分一人だけとなった小さな小部屋で、エステルは一人ぼうっと軽食を摘まむ。フルーツにパン。チーズまで。改めてみれば、なかなかの種類が揃えられていた。備え付けのフルーツを摘まみつつ、劇場内を見やる。五〇年以上前のこけら落とし公演以来だ。
「随分と立派に……愛される場所になったのね」
 過去に火災が起こったことも忘れ、しみじみと感傷に浸る。この劇場の建設に、初代支配人……ペトロニーユの祖父が注力しているか知っていた。
 パリ一番の名所に育てるんだ。
 そう輝いていた彼の妻の瞳の色は、今だ色あせず記憶に刻まれている。ああ、あの時は楽しかった。思い出の頁を捲っていると、どこからか注がれる視線に気がついた。
 肌を震わせるような緊張感。それに急かされるようにして、バルコニーから周囲を見渡した。すると視線の主は直ぐに見つかる。エステルの額を冷や汗を伝った。
 彼だ。
 先ほど自身の左腕を握った青年、セザールだ。
 遠い空間越しに目が合う。思考が硬直し動く事ができない。何故、彼は此方を凝視しているのか。他所からは、別の姿に見えているはずじゃないのか。
 ふと香を見る。どうやら全て焚ききったようで、小さな皿の上には灰だけが乗っていた。香りに鼻が慣れてしまったせいで気づかなかったのだろう。
 早く、早く視線の外へ逃げなければ。
 震える手でカーテンを掴み。思いっきり滑らせた。レールを進むけたたましい滑車の音と共に、ボックス席が薄暗くなる。
 閉めソファに座る。果実を口に放り込み、気を紛らわそうとするが、脳裏に浮かぶのは彼の、セザールの顔だ。じっと此方に向けられるオリーブ色の感覚が途切れることはない。
 どうしよう、この部屋にやってきたら。部屋をノックされて名前を呼ばれたら。
 考えれば考えるほど、装丁は最悪の方向に向かっていく。
「ああ、いやだ」
 脈拍する胸を抑えようと、ゆっくり呼吸を繰り返す。頭の中に、心音だけがどくどくと響いた。
 徐々に恐怖に包まれていた思考が、ぼんやりと薄くなる。今までの気苦労のせいだろうか。瞼はゆっくりと下がり、ついには眠ってしまった。

 ・・・

エステル。起きてエステル」
 肩を揺すられ、目を覚ました。遠く、心地良い声が耳に入る。うっかり寝てしまったのだろうか。そう自覚しゆっくりと目を開ける。見れば、ペトロニーユが小さく眉を下げ、子犬のようにこちらを覗き込んでいた。
「……大丈夫かい。やっぱり、体調がよくないんじゃ」
「お酒を飲みすぎただけよ。少しはしゃいでしまったの」
「それなら良いんだけど……今日は早めに眠った方が良いかもしれない。今日はもうお開きにしようか。何か気に入ったものがあれば地下に持ち帰るといい」
 二人は五番ボックス席を出て、人のいない静まり帰ったオペラ座を歩く。照明のいくらか落ちた廊下にどこか安心感を感じる。
「今日は沢山のお客様がいらっしゃったのね。超満員だったわ」
「それはどうも。お祖父様のときと、どっちが多かった?」
「同じ位よ。ふふ、張り合ってどうするの」
「いいじゃないか聞くくらい。ねぇ、なんで笑っているんだい」
「妬いているのかしらって思って。やだ、そっぽを向かないで」
 わざとらしく顔を逸らすペトロニーユを、エステルは優しく窘めた。
「今日は、とても楽しかったわ。大好きな貴方が、沢山の人に愛されて慕われているの見ることができて。自分の事ではないのに、嬉しかった」
「ありがとう。でも、私の一番はいつだって君さ、エステル」
 ペトロニーユは、職員用入り口の扉に手をかける。
「いいのかい。地下まで送らなくて」
「大丈夫よ。貴方も今日は疲れているでしょう」
「心遣い感謝する。君も気をつけて帰ってくれ」
 扉が開き、冬の風が隙間を抜ける。エステルは意を決し、口を開いた。
「最後に少し、聞いてもいいかしら」
 ペトロニーユは「なんだい」と首を傾げる。
「ここの階のボックス席って、普段とか今日とか、どんな人たちが座っているのかしら。少し、気になって……」
「珍しいな、君がそういうものに興味を持つだなんて。確か、お祖父様の代からの知り合いや、貴族用の専用席だったはずだ」
 ペトロニーユは少し、首を傾げる。
「……でも、誰がどこに座っているかは把握していないな。全部秘書に任せているから。そうだ、明日の朝までネームプレートをそのままにしておく予定だから、気になるなら見に行ってみるといい」
「ありがとう。そうさせてもらうわ」
「うん。じゃあ、おやすみ。良い夢を」
「ええ、今夜はしっかり眠って頂戴」
 ペトロニーユは、無邪気さの残る表情で笑った。
「もちろんだよ、また明日」
 扉から、かちゃりと鍵がかかった音がする。施錠されたことを確認すると、エステルはボックス席の並ぶ廊下へと向かう。
 端から数え、丁度五番ボックス席の対角に当たる席を見つける。聞いたとおり、扉には部屋番号と、金色のネームプレートが掲げられていた。
「……ラファイエット
 エステルに巡る血が、一気に下へと降りた。
 ラファイエットといえば、フランスでも有名な装幀師一族の家柄。かつての王家に連なる血を引く貴族だ。このパリに身を置くものであれば、誰もが知っている。
 ぞくりと背筋に寒気が走る。心なしか手も震えていた。
「……まさか。いや、関係ないはず。気のせい、気のせいよ」
 僅かに露出した首筋に鳥肌が立った。
 きっと、体を冷やしてしまっただけだ。そう自分を欺し、エステルは地下の自室へと戻った。

・・・

 記念公演から一夜明けてもなお、セザールの胸の高鳴りは止む気配はない。
 自室で勉強を進めようとしても、脳裏にはあの赤い髪の女性……エステルの姿が浮かんでくる。忘れよう、忘れようと教本を覗き込んでも、目が滑ってしまう。
 昨晩目の前に現れたあの姿。櫛の通った柔らかな髪に、遠くを見据えるような澄んだ瞳が忘れられない。女性に対して魅力を感じた事は何度かあったが、彼女のそれは、今まで経験全てを上回る。絡みつく花の蔓のように思考を拘束するのだ。
「……駄目だ」
 勉強を諦めたセザールは、ベッドに横になる。
 劇場を立ち去る最後の瞬間、彼女と再び相見えた。広い一階席の吹き抜けを挟んで、丁度対角にその姿を見つけたのだ。視線を交わしたあの数秒間、まるで時が止まったようだった。
 運命だ。
 セザールがそう確信するには時間を要さなかった。
 三階のボックス席にいるのならば、きっと名のある貴族の令嬢なのだろう。年齢もセザールとそう変わらなく見えた。既に社交界に出ていてもおかしくない。
 もう二度と会うことは無い、そう言われた。だが、いつか再会できるという根拠のない自信が胸の内に確かにあった。
 どうすれば、エステルともう一度会うことができるのだろうか。フランス中の貴族の中から探すか、もう一度オペラ座に向かうか。どちらにせよ、セザールにとって苦手な手順を踏まざるを得ない。だが、それでも構わないとさえ思った。
「……君に会いたい」
 無意識に、シーツを握りしめる。ぽつりと呟いた声が、昼下がりの部屋に消えた。
 直後、部屋に力強いノック音が響く。どうせ執事か妹だろうと踏んだセザールは、気に抜けた声で返事した。
「はぁい……」
「セザール、勉強の調子はどうだ」
 聞こえた低い声に、ベッドから跳ね起きる。父だ。慌ててシーツを整え、先ほどまで勉強に励んでいたように装った。緩い返事をした事を後悔する。
「あ、はい。順調です。入ってどうぞ……」
 短い返事と共に父が部屋に入る。仕事から帰った直後なのだろう。正装を身につけていた。強い威圧感に、思わず身構える。
「勉強中すまない。少し様子を見ておきたくてな。うむ、元気そうだな。よかった」
 昨晩、観劇を途中で抜けたことを心配しているのだろう。あの間に、息子が立ち入り禁止の庭園でうつつを抜かしていた。なんて、きっと夢にも思っていないだろう。
「顔を見るついでに一つ、報告があってな」
「知らせておくこと、ですか」
 そうだ、と父は話を続ける。
「会食で会った支配人のを覚えているか。ペトロニーユ・ガルニエ女史なんだが」
 セザールは頷いた。ドレスを来た婦人ならまだしも、男装の麗人を忘れることなどそうそうない。
「来週、彼女と食事の席があるんだ。お前も一緒にどうかと思っている」
「……!」
 はっと顔を上げる。
「食事の席、ですか」
「ああ。卒業制作も近いだろう。彼女も学院出身だから、なにか参考になる話が聞けるかもしれない」
 セザールは頷いた。
 これは間違いなくチャンスだ。オペラ座の支配人であれば、招待客……エステルについて何か知っているかもしれない。
 胸が高鳴るのを感じる。
「勿論、学校の課題もあるだろうから無理強いはしない。余裕があれば……」
「い、行きます!」
 身を乗り出すように答えるセザールに、父は一瞬あっけにとられる。だが直ぐにわかった、と頷いた。
「当日の馬車を手配しておこう。お前も時間を空けておきなさい」
「はい」
 父はどこか満足そうに部屋の外へ出た。
「そうだ、ネクタイを結ぶ練習もしておくことだな」
「わかりました」
 ドアが閉まったのを確認すると、セザールはベッドへ飛び込んだ。全身を包む高揚に溺れ、足をばたつかせる。
 会える、きっとまた会える。
 まだ何も事が進んでいないはずなのに、確証だけはあった。
 今度出会えたのなら、何と話そうか。まずはあの晩の失礼を詫びるところから始めよう。そしてお互いの好きなものについて話して、食事をして、いつか婚約をする。それならば、いつか家督を譲り受けるその日までに、立派な装幀師としてより一層勉学に励むべきだろう。
 気が早いにもほどがある。暫くすると、胸の奥に芽生えた羞恥心がじわじわと脳を刺激した。
 ふと時計を見ると、時刻は十四時を回っっていた。今日はロジェと卒業制作について話し合う日だ。約束の時間までまだ準備をし、玄関へ向かう。
 家を出るまでの間、使用人と何度か擦れ違った。彼らは皆、一瞬驚いた顔をしたが、直ぐに穏やかに微笑む。
「まあ、一体どうしたのかしら」
「今日は珍しく表情が明るいこと」
 背後で囁かれる声は、セザールの耳には入ってこなかった軽やかな足取りは、ロジェとの待ち合わせのカフェへと向かう。
 シャンゼリゼ通りはパリ随一の大通りだ。評判に違わず、沢山の人が行き来する。そのせいか近隣には様々な形式のカフェが多く立ち並ぶ、激戦区となっている。通りには、洒落た午後を求める多くの若者達でごった返していた。
 物好きであるロジェは例外に漏れず、シャンゼリゼ通りに詳しい。彼の指定したのは最近できたばかりの新しいカフェだ。セザールは慣れない地図に苦戦しながら、目的地へと向かう。
 目的の店にたどり着くと、彼は既にテラス席に腰かけていた。よく見ると、口の端に小さなガーゼが貼ってある。その状態で無理して珈琲を飲もうとするものだから、ガーゼに焦げ茶色の染みがついていた。
 ロジェはセザールからの視線に気がつくと、しまりなく笑った。ペンだこまみれになった手を振り、友人を呼び寄せる。
「やあ。傷の調子はどう」
「はは、まだ痛むよ。親父、思い切りぶってきたんだもん」
 へへへと笑う。傷が疼いたのか、一瞬顔が強張った。
 先日の地下での出来事によって、ロジェは両親にこっぴどく叱られた。特に父親は激昂していたらしく、頬に平手打ちを食らわせたのだ。普段温厚なフリムラン伯が暴力を振るったと聞いたときは、心底驚いた。それでもロジェは「親父が子どもに手を上げるなんて初めてだ」と笑いながら語った。
 勿論当初の『オペラ座の怪人魔書計画』は頓挫し、企画の立て直しを余儀なくされた。今日集まったのはそのためだ。
「修正案、考えてきた?」
「まあ、それなりに。とりあえず、計画表を見てくれないか」
 セザールは鞄から紙の束を取り出す。それは全て計画表だった。一枚一枚、大まかな設計図とコンセプトが丁寧に書かれている。ロジェは目を輝かせた。
「すごいじゃないか。たった数日でこんなに……」
「君から前の計画を聞く前から、案は練っていたからね。いいよ、好きに手に取って」
 ロジェは計画表を掴み、全てに目を通す。かっこいい、素敵だ、とその都度感想を言うものだから、セザールの顔は徐々に熱くなってくる。。
「ろ、ロジェ、恥ずかしいから、感想は後で良い……」
「なんで?すごいのに。僕じゃこんなに書き出せない」
 しばらくの間、二人は珈琲片手に意見を出し合った。
 この計画には無理がある。材料が足りない。流石に間に合わない、式構成に無理がある。議論は夕暮れ時まで続き、終わった頃には重い疲労感が肩にのしかかっていた。ロジェの同じようで、注文したクッキーを片手に机に突っ伏している。
「こ、これで大丈夫だよね……」
「……ああ、予定通りに行けば完成する……はず、だよ」
 セザールの言葉に安堵したのか、ほっと安堵の息を吐いた。
「終わったー……少し遅いけど、これで作業が始められる……」
「今日にでも取りかかりたいけど、流石に明日からにするか」
「そうだね。ところでセザール。何かいいことでもあったの?」
 何の脈絡もなく飛び出した質問に、口に含んでいた珈琲を吹き出しそうになる。
「な、ななな、なんだよ急に」
「ちょっと、そんなに動揺しなくてもいいだろう。君が魔書についてそんな熱心に話すのに驚いてさ。だって、学校に居るときとか課題について話すとき、いつもどこかしんどそうに話していたんだもん。一体どんな風の吹き回しかなって」
 分厚い眼鏡の奥が、にやりと細まる。
「あったの?いいこと」
「……うん」
 セザールは頷いた。彼への隠し事は、無駄だと解っている。
「そっか。ふふ、よかったじゃないか」
 ロジェはそれ以上何かを問いただす訳でもなく、残りのクッキーを口に放り込んだ。
「いつか、俺にも聞かせて」
「……ああ、いつかね」
 二人は支払いを済ませると、夕日を背にそれぞれの自宅へと帰っていった。

 ・・・

 ファウストの公演から数晩明けた。数日経てば、記憶も感情も薄まるはず。そう踏んでいたが、エステルの心は今だ落ち着く様子はない。
 昨晩庭園に現れた青年、セザール・ラファイエットのことが頭から離れないのだ。
 月空の下、真摯に自身を捉える真っ直ぐな視線。強く握られた腕、最後に告げられたあの言葉。
 いつか、また会えますか。
 柔らかなテノールは今だ耳から離れず、何度も何度もささやきかける。それが恐怖によるものなのか、または別の感情によるものなのか。混乱した脳ではまだ判別がつかない。
「……」
 エステルはマントを繕う手を止め、深呼吸する。大好きな紅茶も、今日ばかりは味がしない。何か別のことに手を着けてみよう。天井を仰ぎ、目を伏せた。
 本でも読みましょうか。いいえ、きっと登場人物に彼を重ねてしまう。
 暖炉の火でも眺めましょうか。いいえ、きっとあの時の記憶が蘇る。
 食事を作りましょうか。いいえ、彼はどんなものを食べるか気になってしまう。
 何をどうしようとも、胸の内に荒波が立つ。
「一体、どうしてしまったの……」
 自問自答を繰り返すも、自分がおかしくなってしまったことしかわからない。エステルに赦されたのは、ただ無意味な時間を過ごすことだけだった。
エステル。そんなに浮かない顔をしてどうしたんだい」
 気がつけば、ペトロニーユが此方を見下ろしていた。時計を見れば、彼女が来訪する時間になっている。
「あ、ああ。ペトロニーユ。大丈夫、大丈夫よ」
「君がそういうときは大抵大丈夫じゃないんだよ。ねえ、何かあったのかい」
 ペトロニーユはエステルの真横に腰かけた。白い手袋が、優しく赤い髪を撫でる。布越しに感じるほんの少し冷たい手に、エステルは安堵した。
「あ、あのね……」
 無意識の声がすぼむ。彼女にセザールについてを話す訳にはいかない。知れば、きっと不幸にさせてしまうだろう。かといって嘘を吐けば、すぐにばれてしまう。
 言葉を探していると、不意に左手を。視線捕まれた。見れば、人差し指の先には小さな赤い滴が零れている。
「針を刺したのかい。怪我をしているじゃないか。早く手当を」
 ペトロニーユは棚から救急箱を取り出すと、手際よく処置を施した。エステルの指先には分厚く包帯が巻かれている。その様子がどこか滑稽で、笑みを零した。
「少しやり過ぎじゃないかしら」
「いいや、多少やり過ぎるのが丁度良いんだ、これは」
 おどけたように笑うと、持ってきていたバスケットを手渡してくる。
「今週分の食料だよ。足りるかな」
「一人暮らしにしては十分すぎるくらい……というよりも二人分だわ、これ」
「ふふ、君は鋭いな。だめだったか」
 自分よりいくらか長身の女性が、甘えるかのように寄り添う。女性特有の柔らかな筋肉と香水の香りが、緊張した心を安らげる。
「いいえ。これ、使わせてもらうわ。少し離れて頂戴」
「君の手料理、大好きなんだ。楽しみだよ」
 長い腕から解かれ、バスケットを持って台所へ向かう。
「今日はどうするの。泊まっていく?」
 本棚に手を伸ばしていたペトロニーユは目を輝かせるも、しゅんと肩を落とした。
「そうしたいところなんだけど……明日は昼から用事があってね。ここに来るとランチの時間まで寝てしまうだろう」
「じゃあ、明日の夕食は食べに来る?」
「そっちの方も残念ながら。知り合いとの会食があってね」
 めずらしい、と思わず口にした。
 ペトロニーユは社交の場に適した性格をしているが、そのものはあまり好きでは無いと聞いていた。必要であればやむをえず赴くような事ばかりで、会食など滅多にしない。少なくとも聞くのは一年に数度だけだ。
「その人は父の友人の一人でね。親のいない私に、昔からよく目をかけていてくれたんだ。今日また仕事ご一緒して、食事でもどうだってね……エステル。顔色が良くないがどうかしたか」
 言われて初めて、身がすくんでいることに気がついた。確かに、不快な寒気が肌を走る感触もする。
「そう、貧血かしら……少し休むわ」
「食事は私が作ろう。きっと、昨日の疲れが出ているんだよ」
 握っていた食材を取り上げられ、ソファに腰かける。いつの間にか暖炉には追加の薪が焼べられ周囲はほんのりと暖かくなっていた。
「先日のことが尾を引いているのだろうか。君に無理をさせてしまったようで、申し訳ない」
「いいの。とても楽しかったし。ファウスト、私も好きだもの」
 ペトロニーユはそっとエステルの頬を撫でると、キッチンに立った。
 心地の良い調理音と香ばしいスパイスの香りが小さな部屋を包み込む。心地よい安堵に包まれながら、エステルはそっと目を伏せた。

beast of the Opera 二〈怪人〉


 二〈怪人〉


 翌日、セザールが学院内図書室に訪れると、席にロジェがいた。じっと本にかじりつき、頭を抱えている。読んでいるのは初歩的な製本作業に関する教本だった。なかなか動かないペン先を見るに、問題に躓いているのだろう。
「どうしたのロジェ」
 小声で話しかけると、それに気がついたロジェは天の恵みか、と言わんばかりに表情が明るくなった。
「セザール……!」
「勉強?どこが解らないの」
「手伝って暮れるの?じゃあ、えっと、まずはここで」
 彼の言う場所を一つづつ、ページの先頭から順番に説明していく。時間を要したが、問題は徐々に解かれていった。
 最後の一問を解ききると、ロジェは気持ちよさそうに伸びをする。
「あー……、やっと終わった。君が来てくれなきゃ、永遠に終わらないところだったよ。何かお礼をしなくちゃ」
「珈琲一杯で頼むよ。あと、君が気に入った小説の題名をいくつか」
「わかった。じゃあ早速カフェテリアに……」
 二人が同時に立ち上がると、遠くからなにやらひそひそと話し声が聞こえる。二人は動きを止め、そのささやき声に耳を澄ませた。
「なあ、本当か。見間違えたんじゃないだろうな」
「ほんとだって!妹が嘘を吐くような奴じゃ無いって俺が一番わかっている」
 どうやら、何を見たか見ていないかの押し問答のようだ。ただの些細な口論だ、と安心するとある単語が耳に入ってくる。
「でもなあ……〈オペラ座の怪人〉だなんて、ただの噂話だろう?」
 オペラ座の怪人。その言葉にセザールは思わず身構えた。それはロジェも同じだったようだ。
「〈オペラ座の怪人〉……?」
 以前、耳にしたことがある。何十年も前から流れるパリの噂話の一つだ。オペラ座には建設当初から怪人が住みついており、地下に眠る至宝を守っている、というものだ。
 もしそれに手を出そうと言うものなら容赦なく亡き者にされる。しかも、その姿を見ただけでも一生消えない恐怖の傷を残されてしまうというのだ。
 事実、深夜のオペラ座に侵入した不届き者が姿を消したという事実もある。だが、それはあくまでただの噂話に過ぎない。彼らの話すそれも、きっと見間違いか何かだろう。
 なんだ、ただの噂話じゃないか……
 セザールは、こういった怪談話はあまり興味が無かった。決して、怖いというわけではない。嘘か本当か解らないものに怯えることより、目の前の事実に慄くことが多い身の上だからだろうか。だがロジェは興味津々なようで、目元がきらりと輝き始める。
「……君、好きだねそういうの」
「へへ、実はね。そういうセザールは興味なさそうだ」
「不確かな存在より、目に見える者の方がよっぽど怖いから」
 確かに、と丸い目が細まる。
「でも怪談って、なんだかわくわくしない?嘘でも本当でも、浪漫があるように思えてさ。知ってる?オペラ座の怪人っておかしくなった獣の病の患者の末路だって噂があるんだ。他にも工事中亡くなった作業員の幽霊だとか、あとそもそも人間じゃなくて大昔に改造された化け物の類いっていう説もあるよ」
 生き生きと話すロジェに、苦笑いを返すしか無かった。どこからそんな突拍子のない説が出てくるのだろうかと不思議に思う。
「いいなぁ。もしオペラ座の怪人が獣の病で、それで魔書を作れたらきっと素晴らしいものができるに違いないよ」
「そりゃあ、また……」
 装幀師・フリムラン家の息子らしい発想だ。そうだね、と適当な返事を返そうとすると、セザールはふと昨日の父との会話を思い出す。
「ねえ、ロジェ」
「ん、どうしたのさ」
「……卒業制作さ、あるじゃないか。あの。僕一人じゃ不安だから……一緒にやってみないか。共同製作?分業?だっけ」
 ロジェはぽかんと口を開ける。ただでさえ丸い目は皿のようになった。
「ここだけの話、父さんが許してくれたんだ。君とだったら、やっても構わないって」
「ほんと?ああ、嬉しい。君と一緒に装幀ができるなんて楽しみだよ」
 一人で盛り上がるロジェの背後に、司書がやってくる。彼女はノートで一つ、ロジェの脳天をはたいた。
「いたぁ」
「図書館では静かに」
 静かで圧のある声が、ずんと鼓膜に響く。
 そう言い残し立ち去る後ろ姿に、二人は目を合わせて微笑んだ。

・・・

 大学から少し離れた場所に、〈製本市〉なる商店街が存在する。装幀師御用達の道具や指南書、生体素材までもが取りそろえられている専門街だ。フランス一、いや欧州一と言って良い規模を誇るこの市場は、少し気を抜けば迷ってしまう程に広い。
 セザールは、そんな市場に今日連れてこられていた。
 ロジェは地図を広げ、現在地を確認する。指先で道をつつき、小さな建物を示した。
「とりあえず、はじめは展示会にでも行こうか。確か、数百年物の魔書がメインの企画展をしているんだ」
「へえ、数百年もの……ヴィンテージか。是非見てみたい」
「ああ、しかもただのヴィンテージじゃあない。並ぶのは全て、特別の〈いわく付き〉ばかりだ」
 高揚した声で、ロジェは言った。
 生体を利用する魔書には、どうしても〈いわく〉がついて回る。それは素材となった罹患者が生前に作った逸話だったり、製本された後起こった出来事だったりと様々だ。
 魔書そのものの性能や美しさも重要ではあるが、マニアの間ではその〈いわく〉を重視する者も多い。背景物語があればあるほど付加価値がつく、というものだ。
 オカルト好きのロジェも、どうやらその一人らしい。彼は足早に展示会は行われている施設へと向かう。セザールもその後を追った。
 たどり着いたのは、市の中でも一等古い小さな建物だ。展示会を示す小さな看板が立っていなければ、ただのぼろ屋にしか見えない。
「いやあ、雰囲気がすごい」
「ワクワクしてきたなぁ!早く入ろう」
 ロジェに連れられる形で建物の中へと入る。古びた木の扉の向こうは薄暗く、洋灯の明かりが数点点って居るだけだ。どうやらあまり繁盛はしていない様子で、自分たち以外に観客はいない。
 壁際には数十点の本が、丁寧に硝子ケースに収まり、小さな蝋燭に照らされていた。
 セザールは試しに一番端の魔書に目をやる。表紙は菫色に染められ、同系色の宝石よって彩りを重ねられていた。一番目立つ表紙の上部には金色で〈Carmilla〉と美しい書体で綴られている。
 綺麗だ。
 貴婦人を思わせる品のある装幀を、覗き込む。
「気になりますか」
 背後から冷たい女の声が聞こえる。思わず振り返った。立っていたのは、セザールよりも少し年上くらいの細身の女性だった。黒いドレス姿はこの会場の雰囲気にぴったりで、一目で職員だとわかる。
「そちらは丁度、一〇〇年前に作られた魔書になります。〈ベルクグール病〉だった素体の女性は、大変美しい貴族の姫君だったそうです。ですが生来の残虐な性格と、圧政により最後は処刑されたのだとか」
 切れ長の目をにっとつり上げ、女は言う。
「へ、へぇ……他の本についてお聞きしても」
「もちろん。この本は、自身を魔術師と偽ったペテン師の。これは港町に流れ着いた人魚の。そしてこれは、極東の島国で作られた巻物型の書物です」
 好きに手に取ってくださいね、と女は言うと元いた部屋の隅へ戻った。
 照明のせいか、内装のせいか、それとも本のいわくを知っていたせいか。この空間におどろおどろしい空気を感じはじめる。
 最初こそ熱心に本を眺めて居たものの、背景を知れば知るほど胸の奥が疼くように痛んだ、暫くたえてものの、限界を迎え一人部屋の隅の椅子に腰かけた。楽しそうに展示を観るロジェへ、羨望の眼差しを向けることにしかできなかった。
 重いため息を吐く。彼の体調を心配してか先ほどの職員がやってきた。
「気分が悪くなられましたか、どうかご無理はなさらず」
 ……すみません。そう返すと職員は優しく語りかけてきた。
「学生さんですか?確かこの時期は卒業制作の予定を立てに来る頃ですものね。今やって丁度よかった」
 聞けば、彼女もまたルリユール学院の卒業生だという。だが装幀師にはならず、蒐集した魔書を展示する活動を行っているのだとか。
「ご一緒している彼は、〈いわく付き〉の魔書に随分と興味がある様子ですね。ふふ、あんなに目を輝かせて。展示の甲斐があります」
 職員の瞳が、僅かに細まった。
「私たちが展示会を開くのは、魔書とは、一体どういったものなのか多くの人に知って欲しかったからなんですよ。ほら、最近需要が増えているじゃないですか、もっと安く手に入りやすい本をたくさんーって」
 先日、ロジェが言っていたことを思い出し、セザールは頷いた。
「でも、私はそれでいいのかなって思います。今じゃもう習知の事実ですけど、あの本の素材は元は私達と同じ人間ですから。それの数を増やせって意味をもう一度考えて欲しくて」
 職員の視線は、ぼうっと天井を眺めていた。
「……でも、いかんせん建物のせいかなかなか人が来ないんですよ。もしよければ、学生の友人にも声をかけてくれませんか?入館料、安くしておきますよ」
「……わかりました」
 展示を見終えたロジェがやってきた。
「いやぁ、最高だね。曰く付きの魔書はいつ見ても楽しいや。あれ、この方は」
「この展示会の主催者の方だそうだ」
 職員は立ち上がり、スカートを摘まんでお辞儀する。
「なるほど!展示品、色々見させてもらいました、勉強になります」
 丁寧な礼をするロシェに、職員は微笑みかけた。
「いえ、学生の皆さんの役に立てたのなら嬉しいです。小さな展示会ですが、楽しんでいただけたのなら何よりです」
「はい、おかげさまで!セザール、店を周りに行こう」
 軽い足取りのロジェは、すたすたと出口へ向かう。職員に礼をすると、その後にセザールも続いた。
 外に出ると、刺すような冷たい日差しが二人に降り注ぐ。暗い空間に慣れていた目が横に細まった。
「あはは、眩しい。セザールは展示会どうだった?何か着想になるようなものはみつかった?」
「……いいや、観るので精一杯でだったよ。でも勉強になった」
「そっかぁ」
 前を行っていたロジェは、くるりと振り向き口を開く。
「じゃあさ、セザール。僕と一緒にオペラ座の怪人を本にしてみないか」
「え、」
 唐突な言葉に、セザールは口をぽかんと開けた。
「展示会を見て決めたんだ。僕が作りたいのは人々を震え上がらせるような、狂気的な魔書だ。装幀や逸話だけじゃなく、中身もうんと刺激的なものにしたいんだその題材として、オペラ座の怪人を採用みたいんだ。きっと、最高の出来にあるに違いない」
「うん、君の言いたいことはなんとなくわかった。でも怪人を本にするって、一体どうやって」
 その言葉を待ちわびていたと言わんばかりに、ロジェは口角をつり上げる。
オペラ座の地下に行くんだ。そして本人から話を聞く」
 地下、とセザールは思わず口にした。
「噂だと、オペラ座の怪人に見つかれば殺されるんじゃないのか」
「大丈夫だって、もしもの時にはコレ、だからさ」
 ロジェは右手の人差し指を、引き金を引くようにくいっと折り曲げる。何を言わんとしているか察したセザールは、これ以上の抵抗は無駄だと悟り頷いた。
「ね、いいだろう。ねぇ」
「……わかったよ。ただし、時間以内に見つからなければ帰る、いいね」
 その言葉にロジェは笑顔で飛び跳ねた。
「やった、約束だからね」
「はいはい」
 セザールはロジェを親友だと思っている。だが、この無鉄砲気味で危険知らずな姿勢はどうにも苦手だった。悲しいのは、それを差し引いたとしても彼を信頼してしまっている自分自身がいることだった。

……

 オペラ座の地下、知らなければ見過ごすような細い路地に、古びた木製の扉が一つ佇んでいる。この場所を知っているのはこの世でたった三人だけ。決して大きいとはいえないそれの向こうには部屋があった。
 支配人としての仕事を終えたペトロニーユは、両手に紙袋を抱え、部屋の扉を叩く。古びた蝶番が音を立てて動くと、中からエステルが顔を出した。彼女は、差し出される袋を観て目を丸くする。
「まあ、どうしたのその荷物」
「君のために見繕ったドレスだ。来週の記念公演の時に来てもらうためのね」
 ペトロニーユは袋の中のドレスをテーブルに広げる。ゆうに十数着はあるだろう。流行を取り入れた煌びやかな造りで、使われる素材はどう見ても高級なものだ。
「ドレスなんて、一着あれば十分よ」
「滅多に自分で買い物をしないからね、加減を間違えたかもしれない。さあ、そこに立って。緑?焦げ茶?白も悪くない。あぁ、迷ってしまうな」
 手にしたドレスを代わる代わるエステルにかざしながら、ペトロニーユは鼻歌を歌う。
「どれでもいいわ、本当よ」
「君はファッションというものをわかっていない。悩むのも楽しみのうちなんだ」
「悩むべきなのは貴方じゃ無いと思うけど」
「もう、少しは黙っていて。うん、やはり君には黒が似合う」
 エステルに手渡されたのはシルク製の黒いロングドレスだった。他とは違う意匠の少ない簡素な形ではあるが、それがより一層、素材の良さを引き立てている。
「綺麗ね」
「これを纏った君は、もっと美しいだろう。ねえ、来て見せてくれないか」
 エステルは「わかったわ」と頷く都、鏡台の前へと向かう。
「本当、ペトロニーユは私に服を与えるのが好きね。お人形遊びが好きだったあの時から変わらない」
「何年も昔のことだ。あまり揶揄うのはよしてくれ」
「貴方にとっての昔は、私にとっての最近よ。私が何百年生きていると思っているの」
「ああ、君の悪い癖だ。そうやってすぐに年齢を盾に使う」
「だって本当のことよ。私が貴方くらいの年齢の時なんて文字を読むどころか、言葉らしい言葉も話せなかった」
 背中のボタンを閉めたエステルは、くるりと振り返る。照明を反射する闇色のスカートがたおやかに揺れた。
「着てみたけれど……大丈夫?どこかおかしなところはないかしら」
 舞うように、くるりくるりと身を翻して見せる。
「美しい。まるで黒蝶だ。お祖父様が地下の籠に閉じ込めたがるのも無理はないよ」
「こら、ペトロニーユ」
「ははは、冗談だよ。じゃあ最後に、此方を」
 ペトロニーユは荷物の中から、平たい木箱を取り出した。深いブラウンに金の仮面の紋章。エステルには見覚えがある。
「これは」
 丁寧に蓋が開けられると、中に入っていたのは一枚の仮面だった。装飾を控えた無駄のない白の仮面は、丁度エステルの右の顔にぴったりに重なる。
「今使っているものは古いだろう。これを機に新調しないか。私が最も信頼する職人に作らせたものだ。着け心地は保証するよ」
「まったく、いつの間に寸法をとったのやら」
 仮面を手渡されたエステルは、今身につけている仮面を外し、すぐさま新たな仮面を顔に添える。軽く首を回し、触感を確かめた。
「どう?」
「ひんやりとしている。顔にはぴったりよ」
「それは良かった」
 ペトロニーユが満足そうな表情を浮かべると、背後の時計が鳴った。時刻は午前〇時を示している。
「見回りの時間だわ。行かないと。貴方も明日仕事なんだから早く寝ましょうね」
「はいはい。じゃあ、来週の記念公演楽しみにしているよ」
 ペトロニーユはエステルの手の甲にキスをすると、部屋をあとにした。
「まったく、どこであんなものを覚えてくるんだか」
 くすりと笑うと、普段着に着替え愛用の得物を手に取った。

・・・・

 街灯の点る石畳の上に、二人分の影が落ちる。辺りは薄暗く、彼ら以外に人の気配はない。懐中時計の時刻は丁度、深夜零時を回った。
 確かに、怪談話の類いは怖いと感じた事はない。だが、実際に夜闇を歩くのは別だ。痺れるような緊張が、全身の神経を震わせる。
「ねえ、やっぱり引き返さないか。いくらなんでも夜は、その、危ないと思うんだ」
 片方の人影、セザールは少し前を歩くロジェに問う。
「でも昼だったら人が居て忍び込めないだろう」
「もし、怪人が実在して襲われでもしたらどうする」
「もちろん、対策はしてあるさ。その時は……」
 ロジェは鞄の中から一丁の銃を取り出した。一見普通の銃だが、持ち手の部分に見覚えのある綴りが見える。
ブラッドベリ製の小型拳銃……?嘘だろう。世界に五丁しかないって」
 金属製の銃弾を用いる代わりに魔力を抽出し発射する、ブラッドベリ社の逸品だ。リロードを必要とせず、魔力が続く限り連射できるという逸品だ。だがこれが製作された直後会社が消えたせいで、試作段階の数丁しか残されていない。
「うちで保管していたんだ。パパの部屋のショーケースにしまってあったよ。けっこういけていると思わない?」
「お父上の?」
 フリムラン家が所有する魔術道具と言えば、価値は数百万はくだらない。歴史的価値のあるものばかりだ。しかも投手である父の私室から、と言えばその価値を想像することはむしろ難しい。
 その貴重さを説こうとしても、ロジェは首を傾げるだけだ。遺産級の品々に囲まれて育ったせいで、感覚が麻痺しているのだろう。それどころか、他にも持ってきたよ、と誇らしげに言うのだ。
「……ああもう、絶対に壊すんじゃないよ。それに、時間が来たら直ぐ帰るからね」
「はーい」
 ロジェの後ろをため息交じりについていくと、オペラ座の裏へとたどり着く。曰く、ここが最近怪人が目撃された場所だそうだ。
 ロジェは小さな灯りを頼りに地面を眺める。地下へ向かうための出入り口を探しているのだ。セザールも一緒になって探し回る。
「……あった」
 植木の向こうに、人一人入れるくらいのマンホールを見つけた。よく見れば、最近開けたような痕跡もある。
「……ここに入るつもり?」
「もちろんだよ」
 重い石の蓋が外される。現れたのは地下へと続く長い縦穴。それを覗き込んだセザールの肌には鳥肌がたった。ロジェは洋灯を腰のベルトに下げ、軽い身のこなしで地下へ続く暗黒へと挑む。はしごと呼ぶには粗末な、壁に打ち付けただけの鉄の足場を伝い、降りていく。
「ロジェ」
「大丈夫だって。運動神経はいいから、いざとなったら君を抱えて逃げるよ」
 降りながら話すせいか、徐々にその声は遠ざかっていく。セザールは観念し、彼の後を追うようにはしごに足をかけた。
 かつかつかつ、と軽快な靴音だけが狭い縦穴にこだまする。ふと頭上を見上げると、黒い視界に丸くくりぬいた夜空が浮かぶ。
 親の言いつけを破る罪悪感と、道の空間への恐怖がふつふつとわき上がる。震える手に力を込め、無心で地下へと降りた。
 もう一〇メートルほど降りた頃だろうか。足元で、小さな水の跳ねる音がした。
「おーい、セザール。足がついたみたいだ」
 脳天気なロジェの声に安堵していると、セザールの足も硬い地面へと触れる。無駄に力めばつるりと滑る、湿った石畳だ。明かりはあるが、用心して足を運ばなければ痛い目に遭うだろう。
「うんうん、雰囲気は抜群!」
「雰囲気って……もう少し声を落として。誰かに聞かれているかもしれない」
「へへへ、そうだな。でも、怪人が聞いていたら探す手間が省けるのに」
 ロジェは冒険譚の主人公気取りで洋灯の明かりを掲げる。視界に広がったのは、石と木材で固められたトンネルだ。二人並んで十分歩ける歩道に、その倍以上の幅の水路。天井までの高さはセザールを縦に二人分重ねても余裕がある。半円形の形状をしているせいか、微かな音でも良く響く。
「とりあえず、上流に進もうか」
 ロジェは進み出す。その足取りは、心なしか先ほどよりも軽い。それとは対照的に、セザールの足は鉛をくくりつけたかの如く重かった。
 暫く歩くも、景色は変わらず、ただ同じ光景が繰り返されるだけ。最初は浮かれていたロジェの足取りも、徐々に静かになっていく。見れば退屈そうにあくびしていた。
「なあセザール。何か見つけた?」
「幸運なことに何も」
「ははは、だよねぇ」
 何も起こらない安心感のせいか、だんだんと軽口を言い合うようになってきた二人。だが平穏もつかの間、耳につんざくような悲鳴が一つ聞こえた。どうやら声は男性のもので、一人のものではない。少なくとも複数人はいる。
 つい先ほどまで緩んでいた神経が、きりりと引き締まる。
 嫌だ、助けて。
 悪かった。
 見逃してくれ。
 その叫びは背後からこちらに向かって迫ってくる。セザールたちの心臓はどくりと大きく鼓動し、脚はバネのように跳ね駆けだした。その間にも叫びは続き、それはいつしか断末魔となっていく。
 精神に電流が走る。びりびりと体が震えた。逃げても逃げても、背後の絶叫は止まることはない。
「ロジェ、ロジェ!どうしよう……」
「わからない!とにかくこの場所から離れなきゃ……」
 直後、目の前に分かれ道が現れる。ロジェはセザールの腕を引いて左へと曲がった。走り込んだ先は枝分かれした通路いくつもあり、二人はその一つに身を隠す。洋灯の明かりは落とされ、目の前は真っ暗になる。
「お、驚いた……」
「何だったんだ今のは」
「わからない。でも、僕たち以外に誰か居るのは確かみ、」
 遠くから、ひたり、ひたりとこちらへ迫る。思わず、口元を押さえた。足音だとうと思えば、同時に何かを引きずる音も聞こえる。それが何かと想像しただけで、全身に鳥肌が立つ。恐怖で心臓が飛び出してしまいそうだった。
 二人の心臓の音だけが、不自然に脳に響く。息をひそめ、それが過ぎていくのをじっと待つ。気配が過ぎ去ると、ふっと安堵の息を吐いた。
「……なんだ、今のは」
「きっと、オペラ座の怪人だ」
 そう言ったロジェの声は、微かに震えていた。
 怪人は、オペラ座の至宝を狙う者を探し出し、殺す。先ほどの悲鳴の主達も、その至宝を探しにやってきたのだろうか。
 もし自分たちが見つかっていたら?
 想像したセザールは身震いする。
「駄目だ、帰ろう。見つかったら僕たちも殺される」
 暗闇の中で、ロジェが頷くのを確認するとセザールは通路を見渡した。少しづつ夜目が利いてきたようで、輪郭程度なら空間を把握できるる。
 先ほど、自分たちの横を通り過ぎた人影も見当たらない。今しか無い、そう歩き出そうと踏み出すが、袖をロジェに引っ張られる。
「これを使おう」
 彼は鞄から、一冊の本を取り出す。美しい金と宝石に飾られた書物。魔書だ。彼が持ってきたと言っていた、道具の一つだろう。
「少しの間だけ、不可視の魔術が使えるんだ……お互いも見えなくなってしまうのが難点だけど、怪人に見つかるよりきっと」
「……わかった」
 表紙にロジェの手がかざされた。同じようにセザールも手を添える。軽く目を閉じ、指先に意識を集中させ、魔力を流し込む。すると表紙がぼんやりと淡く光り、描かれていた文字が浮かび上がった。〈Gyges〉と描かれた金の文字がふわりと一瞬現れると、ロジェが抱えていた本ごと姿を消した。
「ロジェ……?」
 辺りを見渡してみると、直ぐ隣から彼の声が聞こえてきた。
「ここにいるよ。君の姿も見えない。成功したみたいだ」
「よかった。じゃあ早く外へ」
 透明になった二人は、隠れていた通路から身を乗り出す。気配ひとつないことを確認すると、ほっと胸をなで下ろした。息を潜め、元来た道を歩き出す。
 なるべく足音をたてぬよう進み、先ほどの分かれ道までやってきた。あとは真っ直ぐ進むだけ。張り詰めていたセザールたちの空気も僅かに緩んだ、その時。
 湿った石畳に脚をとられ、セザールの体が傾く。運悪く、体を受け止めようとしているのは、冷え切った水路だった。
 ロジェ……!
 友い助けを求め手を伸ばすも、その存在を視認できない。ただむなしく手は空を切るばかりだ。ロジェもまたそうだった。
「セザール!」
 ロジェが声を上げたときには既に、セザールの身は流れる水の中に叩きつけられていた。凍てつく水の中、這い上がろうと手を伸ばすも、水を吸った服が底へ底へと誘う。
「た、たすけ」
 僅かに水面から出ていた口先から水が流れ込み、言葉は塞がれた。空気の無い水の底へと引きずられたセザールの意識は徐々に、遠のいていった。

・・・

 外套を纏った女が一人、地下通路を徘徊する。掲げていた得物は、洋灯の光を受けて、濃い鈍色に揺らめいている。
 今日も数人の侵入者を捉え、然るべき対処を行った。だが、何故か今日は胸騒ぎがする。こういった嫌な予感は存外当たるものだとエステルは知っていた。
 嫌だわ。早く見回って帰ってしまいましょう。
 足早に自室への道を進むと、上流何かが流れてくるのが見える。靴だ。しかもよく磨かれた上等な品物。こそ泥が履くようなものではないと、素人目でもわかる。
「……あぁ」
 眉間に小さく皺が寄る。嫌な予感が的中した。
 水路の上流へと駆けると、水路の浅瀬に一人の青年が横たわっていた。
 顔はすっかり血の気が引き、呼吸も浅い。このまま放っておいても勝手に息絶えるのは時間の問題だろう。
 そっと青年の頬に手を当てる。冷たい。まるで氷だ。
 またか、とエステルは肩を落とした。
 この水路は、パリ中の河川に繋がっている。川でうっかり足を滑らせた若者が、何度か地下に流れ着いてきた事があった。彼もまた、その類いだろう。
 軽く声をかけ、意識の有無を確かめる。返事が無いことを確認して、青年を水路から引き上げた。限界まで水分を吸った衣服は重く、体温を奪っている。上着を捨て、自身の外套を巻きつけた。
 かろうじて、まだ呼吸はしているようだ。だが介抱してやれるほど、エステルには余裕がない。
 適当な場所まで運んで、地上に転がしておこう。それでどうなるか、彼の運次第だ。
 予想以上に冷たく重い体に、腕を回したことを僅かに後悔したその時だった。ふと、髪に何かが触れる感覚がした。思わず体が跳ね、視線を映す。
 青年が目を開けていた。ぼんやりと虚ろだが、真っ直ぐと此方を見据えていた。
 言葉を失っていると、青紫の唇から小さく言葉が紡がれる。
「貴方は……誰だ」
 今だ意識の定まらない手は、更に先に延ばされる。爪先が髪の間を微を縫い左頬に触れた瞬間、引きつった叫びが上がる。
「……ひっ」
 触れた指先が、びくりと離れる。
 突然の出来事に、エステルは狼狽えた。
 どうしよう、どうしよう、どうしよう。
 オペラ座の地下に入ってきた者は皆、殺さねばならない。そう初代支配人と約束をしていた。彼曰く地下に来るものは皆、悉くエステルの身を危険に晒すものなのだ。と、きつく言いつけられている。彼女自身もそれを理解していた。
 だが、彼は水に流れて来ただけだ。別の場所の水路で溺れてしまっただけなら、殺すのはいやだった。かといって、顔を見られた今見逃すわけにはいかない。ただの迷子を殺すほどの勇気は持ち合わせていなかった。
 エステルが考え込んでいると、青年は再び呟いた。
「そうか……僕は死んだのか」
「……え、」
 動揺した瞳で青年を見やる。夢を見るような、安らかな笑みが浮かんでいた。
「そして、君は天使様か。きれいだ」
 朦朧とする意識の中、彼は続けざまに言葉を紡ぐ。
「しんだ……死んだのか。少し、寂しくはあるけれど、よかった。ああ、よかった」
 どうやら彼は、自分が死後の世界にいると錯覚しているらしい。
「ああ、美しい。やはりここは天国に違いない」
 疲労しきった声はうわごとのように呟く。
 そうだ、彼は自分のことを天使だと思っている。意識が覚醒していないうちに下流の安全な場所に置いてきてしまえば良いのではないか。
 エステルは安堵した。これなら誤魔化すことができそうだ。
「……違いますか?」
「そ、そうです。迎えに来たのです」
 精一杯、天使らしく胸を張る。青年の目が少し煌めいた気がした。
 このままだったらいける。
「天使様、お聞きしたいことがあります」
「は、はい、何でしょう」
「……僕は天国に行くのでしょうか、それとも地獄へ落ちるのでしょうか」
 天国?地獄?
 エステルは口ごもる。知り合いならまだしも、ほんの今、出会ったばかりの人間の死後の行き先など、知るよしもなかった。
「……わかりません、それは神が決めることですから」
「神か……」
 セザールは今だ定まらぬ焦点で天井を眺める。
「天使様。天使様にはお名前はあるんですか」
「え、えっと。名前」
 回答を迷った。ここで名を告げることは、いささか憚られたのだ。
「名前はありません。天使ですから」
「そうですか……きっと貴方なら、美しい名前を持っているかと思いました」
「では、貴方の名前は?あるのでしょう」
 訊ねると、青年は「セザール」と短く言った。
「セザールですね。立てますか」
「は、はい。」
 セザールはエステルの手を借り立ち上がろうとする。だが、うまく膝が伸びきらず、苦痛の表情を浮かべた。
「……痛っ、」
「見せてください」
 傷だらけの手は腹部を指す。服を捲れば大きな青あざができていた。流される最中に何かにぶつかったのだろう。骨が折れてる気配は無いが、無理に動こうとすればそれなりに痛むだろう。
「……セザール、しっかり捕まって」
「天使様……?、うわっ」
 エステルは倒れ込む体に手を回すと、軽々と持ち上げる。女性の細腕ではにわかに信じがたい光景だが、セザールは目を輝かせた。
「すごい、素晴らしい。流石天使様だ」
「あ、あまり顔をつかづけないでください。その、驚きますので」
 エステルは上流へ向かって歩き始めた。
 くすんだ赤の髪が、歩くごとにゆらゆらと揺れる。手から伝わる重さと冷たさに不安を感じながらも一番近い出入り口まで向かった。
 もうじき夜明けだ。また誰かに見つかってはペトロニーユに迷惑をかけてしまうだろう。日が昇る前に彼をどこかに置いてこなくては。だが放るなら、なるべく彼の家に近い場所へ。
「セザール、貴方の住む家はどこにありますか。その、神への身分の確認のため、一応聞いておこうかと」
「たしか、うん、そうだ。パリの南にある教会の、その一つ手前の通りです。わかりますか、天使様」
「は、はい。パリに住んでいて、知らぬ者は居ないでしょう」
 そう、ですよね。と、セザールは黙りこむ。
「天使様、僕の懺悔を聞いてくれませんか」
「……構いません」
 震える唇から、ぽつぽつと言葉が紡がれていった。
 彼は古い装幀師の家系に生まれた青年だった。父親など周辺から将来を期待されている立場に居るらしい。だが装幀の重要な作業、素体の解体が生理的に受け付けないのだという。
 装幀師、か。
 エステルは、紙に隠れた顔を僅かに歪ませる。
「……素体解体の苦手な装幀師がいるのですね」
「そう、なんです。僕はまだ正式にそうではありませんが」
 ぼんやりとした瞳が濁った。
「僕は。僕は死んだ方が良かったんだ。装幀師になる前に死ねたのなら、これで良かったんだ……誰も失望させないで済む」
「そ、そんんことありません!」
 エステルは思わず声を張り上げる。通路を反響する声に、セザールの体はびくりと跳ねた。
「天使様……?」
「あの、いえ、その……少し、昔出会った人のことを思い出したのです。私が昔、一人でいたとき。手を差し伸べてくれた人たちの言葉なんですが。『人は皆、幸福に生きるべきだ』、そう言って励ましてくれたのです」
「なんて素晴らしい人だ。でも、天使なのに人って、少しおかしい」
「あ、はは。そうですね」
 うっかり、身の上を話してしまった。何故かはわからない。きっと、恐らく。僅かながら、セザールに共感している自分がいるのだろう。そうだ、彼もまた外れた者なのだ。
 着々と進んでいたエステルの足は立ち止まる。壁に掛けてある看板を見ると、通りの名が掲げてあった。
「セザール」
「なんですか、天使さ、」
 きょとんと目を丸くするセザールの首元を、軽くとんと叩く。すると、見開かれていた目に瞼が落ち、ゆるりと体の力が抜かれていく。
「どうか、今までのことは忘れていて」
 エステルは小さく囁くと、セザールの体を地上に送り届けた。

・・・

「セザール、セザール!」
 がたがたと体を揺すられ、再び目を覚ました。最初に視界に飛び込んで来たのは悲痛な表情を浮かべたロジェだった。
「よかった……!生きていた、生きていた!」
 ぼたぼたと流れる涙が頬に落ちる。セザールは首の動く限りで辺りを見渡した。どうやらここは、自宅近くの川の辺らしい。空を眺めれば、遠くから薄赤い光が滲むようにに溢れだしている。
 起き上がろうとするが、首と腹部が痛い。ロジェに手を借り、やっとの思いで地面に座った。
「僕、一体どうなったんだ……天使様は……」
「天使様?」
 ロジェは、二人がはぐれてから今までの事について語り出した。
 セザールの姿を見失ったロジェは、通路を追った。だが行き止まりに行き着き、一縷の望みに駆け地上を探すことにしたという。水路の地図を見て、最も流れ着く可能性の高いこの川付近を見て回ったらしい。
「ああ、生きた心地がしなかったよ……ところで天使様って」
「赤い髪の、黒い服を着た綺麗な女性の姿をしていたんだ。僕を神の元に運ぼうとしてくれた」
「天使、かぁ。うぅん、うちの絵画にいる天使の姿とは随分違うけど、彼女が天使と言うならば、きっとそれは夢だ。だって君は死んでない。生きてここに居るのだから」
 そうだね。
 セザールは空を仰いだ。星は少しづつ姿を消し、新たな朝の光が覗く。どうせ家に帰れば、こっぴどく叱られるのだろう。ならば、もう少しこの空を眺めて居たかった。

 

beast of the Opera 一〈守人〉


  一〈守人〉


 オペラ座の地下には、至宝が眠る。
 この噂を聞きつけた荒くれ者は、至宝を我が物にしようとオペラ座の地下に自ら舞い降りる。だが一度降りたが最後、彼らが地上に戻ってくることはなかった。しかも、その事実を知っていながらも、自分は生き残れるという蛮勇を持った盗人が後を絶たない。
 今日も愚かな罪人が地下道を走る。人数は三人、どれも命知らずと言えるだろう。
 湿った石畳の上。数メートルおきにある小さな蝋燭に導かれ、彼らは逃走する。鬼気迫る面持ちで、我先にと走る姿は滑稽でもあった。
 先頭を走る一人が叫ぶ。
「おい、出口はこっちじゃなかったのか」
 焦りと怒りに気圧され、二番目の男が零す。
「たしか、こっちの方向だったはずだ。磁石が言うのだから、間違いない」
 そう言って懐から磁石を取り出し覗き込む。見れば、先ほどまで同じ向きを指していた針は、ぐるりぐるりと回転していた。強力な魔力に当てられたのだろうか。これではまともに方角なんてわかりはしない。
「ああ、クソったれ……!こんな時に限って壊れやがって。早くしないと追いつかれちまう」
 無機物に悪態を吐く二人を眺めていた最後尾の男は、はっとあることに気がついた。
「待ってくれ……ここ、どこだ?」
 小さな呟きに、三人は足を止める。辺りを見渡すと先ほどまで走っていた石の地下道は消え去り、目の前には暗黒の湖が広がっていた。揺蕩うこと無く闇を映す湖面は、異界への入り口を彷彿とさせる。
 男達は身震いする。
「聞いてないぞ、こんな湖があるだなんて……」
「これ以上進めない、戻ろう」
「駄目だ、後ろからはあいつが追っ、」
 その言葉が終わりを迎える前に、ごとんと重たいものが落ちる。同時に先頭に立っていた男の体が、濡れた地面へと崩れ落ちた。
 微かな灯りに照らされ、赤い水たまりが広がっていく。
「う、うわあああああぁぁ!」
 落ちてきた者は、男の頭部だった。たった一瞬で首を切り落とされたようだ。
 残された二人の間に、緊張が走る。片方がヒステリックに叫んだ。
「まさか、アレが追いついてきたのか?無理だ、あの距離から追いつけるはずが……」
「それはどうでしょう」
 空間にこだまするように、女の声が響く。妙齢とも壮年ともつかぬ低く芯まで響く声は、二人の荒くれ者を怯えさせるには十分だった。彼らはまた絶叫する。
「逃げるぞ!」
「で、でもこいつは……」
「死んだ野郎の頭なんぞに構ってられるか、行くぞ」
 男は一人で元来た道を走り出す。ありったけの速度を出して、重い脚で駆けた。
「は、はあ。はあ……あれ?」
 暫く走った男は違和感に気がつき、後ろを振り向いた。誰もいない。自分と一緒に逃げて居るはずの仲間がいない。
 ごくりと生唾を飲む音がした。
 全てを察した男の背に、冷や汗が流れる。
 殺される。
 自分だけでも生き残らねばならない。焦燥とともに、再び腿を振り上げた。この場所から一刻でも早く抜け出さなくては。
 次の瞬間、目の前に重い何かが降ってきた。見れば、先ほど姿を消した仲間だった。腹部には縦に割れた大きな傷口が開き、今もなお絶え間なく血が滴り出している。まだかろうじて息はあるが、手遅れなのは素人目でも明白だ。
 こちらに伸ばされた腕を振り払うように、後ずさりする。死に損ないに構う暇はない。五感を振り絞って、奴の気配を探した。水路、壁穴、天井、全てを見渡すが、その姿はなかった。それでも安心することはできない。確実にこの近くにいる、という確信が男にはあった。
 ああ、こんなことになるのなら来るんじゃなかった。そう後悔しても遅い。愚か者の背後に既に、裁きの手が近づいていた。
 小石の転がる微かな音に、男は振り返る。視界に入ってきたのは一人の影だった。
 背丈は男よりも拳一つ小さいほど。そして、全身をすっぽりと覆い隠してしまう闇色のローブ。垂れ下がるくすんだ赤毛は、地面近くまで垂れ下がっている。骸骨のような細腕に似つかわしくない大鎌は、遠くの蝋燭の光に触れ妖しくギラついていた。
 ローブの隙間から覗く肌は青白く、蝋人形を思わせる。向かって左半分は白くどろりとした仮面で覆われているが、もう半分は妙齢の女性のそれだった。酷くやつれているものの、憂いを帯びた彫刻のように整っている。
「貴方で、最後の一人でしょうか」
 おどろおどろしい姿からは想像できない可憐なソプラノは、かえって男を恐怖させた。女は身の丈ほどある大鎌を軽々と振り上げ、眼下の罪人に向けて振り下ろす。
「ここに来た貴方たちが悪いのですよ」
 まるで、死神だ。
 男は掌を前に構え、指先に力を込める。すると一瞬、腕の太さほどの炎の渦が現れた。女は振り上げていた鎌を空振り、一歩、後ろに飛んだ。間髪入れず、男は渦を出し、女に向かって放つ。女は踊るように、ひらひらと舞い避けた。
 男はしめた、とほくそ笑む。
「おい、さっきの威勢はどうした。逃げるばかりじゃ殺せないぜ!」
 わざと煽っても、近づく素振りを見せない。好機をうかがうように、虚ろな視線が此方を見つめてくる。
 このままなら、いける。男の予感が確信へと変わった。
「……ああ、そうか。お前、魔術が使えないのか。なるほど獣の類いと聞いていたが、まさか本当だとは」
 返事はない。黒い外套が、闇に踊るだけだ。
「図星だな。生きたことを後悔するほど痛めつけてやろう、死ね!」
 男はもう片方の手をかざすと、湿った地下道を突き抜ける、巨大な炎を生み出す。
「燃えろ、燃えろ燃えろ〈オペラ座の怪人〉!焼き殺してやる!」
 炎は勢いを増し、壁に滴る水を枯らせる。橙色に燃え上がる光は、いつしか周囲一帯を焼き尽くした。
 しばらくして男は腕を下げ、炎を収める。すっかり呼吸は乱れ、体中から汗が噴き出している。急激な魔力消費によって体力は減り、今は経っているのがやっとだ。鼻孔を刺激する焦げ臭い匂いに、にやりと口角をつり上げた。
「ふ、ははは……これだけやれば、死ぬだろう」
 男の荒い息と微かな水滴の音が、静かに地下道に響いた。涼やかな静寂に、安堵のため息を吐いたその時。
「嗚呼、お気の毒に」
 焼き殺したはずの声が、脳にこだまする。男の額から冷や汗がにじみ出た。
「相手が悪かったですね。残念ですが、仕事なので」
 瞬間、影がが天井から降りてきた。思わずしりもちを着く。目の前に先ほどの女が立っていた。外套の繊維一つ燃えた形跡はない。
 何故だ、何故生きている。
 あんな炎の中、例え〈獣〉でも生き伸びるなんて不可能だ。
 男が上を向くと、薄暗い視界の中、一点更に暗い部分が存在しているのが見て取れる。穴だ。穴が開いていた。天井に人の通れる大きさの穴が開いている。
 ああ、なんだ。男は口の端で笑う。
「……反則じゃねぇか」
 希望を失った瞳はただ呆然と、その刃が自身の首を切り落とす瞬間まで、揺れる赤髪を見つめていた。

・・・

 パリ・オペラ座の支配人、ペトロニーユ・E・ガルニエは、楽屋の廊下を颯爽と歩く。踊り子達は皆、彼女のために道を空け、壁際でよりそうながら黄色い歓声を上げている。モーセの海割りを彷彿とさせる光景は、このオペラ座では日常茶飯事だ。
 男性ほどある背丈に、くっきりと整った顔立ち。うなじで結んだ黒髪は、揺れるたび艶やかな光沢を放つ。おまけに男装を好むせいか、誰が呼んだかオペラ座の貴公子。ロマンス小説から飛び出してきたような彼女の出で立ちには、数多の女性が虜になっている。上映される演目よりも、彼女の挨拶目当てにやってくる観客もいるほどだ。
「今日もお美しいわ。まるで絵画から抜け出してきたかのよう」
「香水を変えられたのかしら。とてもよい香り」
「あの方の姿を拝められたのよ、今日一日最高の踊りができそうだわ」
 踊り子たちはうっとりした視線を向ける。中には抜け駆けしようと声をかける者もいた。だが、ペトロニーユはにっこりと微笑み手を振るだけで、決して誘いに乗ることはなかった。
 そんな中、ある女性がが彼女の行く手を阻む。
「ねえ、ペトロニーユ。今日こそは逃がさないわ」
 一人の踊り子が、ペトロニーユを引き留めた。誰よりも白い衣装に、誰よりも煌めくブロンドの髪。そして、青空の宝石の瞳。踊り子主席のルイーズだった。オペラ座にて彼女に敵う美貌を持つ者はいないとまで謳われる娘で、パリ中に名を轟かせている。
 少しこの強そうな目元は、じっと目の前の愛しい人を見つめる。
「ルイーゼ、何のつもりだい」
「何もかもないわ。今から私と一緒にカフェーに行くのよ。ねえ」
 柔らかな腕に抱きしめられ、ペトロニーユは困ったように眉を下げる。周囲の踊り子達は歓声を飛ばすのをやめ、おずおずと引き下がった。
 ルイーズはオペラ座で最も美しい踊り子だが、同時に傲慢で我が儘な女と知られていた。愛しのペトロニーユとの会話を邪魔すれば最後、翌日にはあの手この手で嫌がらせを受け、退団に追い込まれてしまうだろう。そうやって姿を消した踊り子を、彼女たちは何人も知っていた。
「ルイーズ。私には仕事があるから、また今度にしてはくれないか」
「嫌よ。前だって、そうやってはぐらかして以来よ。その仕事って、最高の踊り子である私よりも大事なことなの」
「その質問は反則だ。君と仕事は天秤にはかけられないと言っただろう」
「嫌、答えて」
 徐々に強くなる腕を引く力に、流石の支配人とて観念した。
「……ああ、わかったよ。仕方ないな。じゃあ今日の五時、楽屋裏で待っているように。必ず迎えに行くから」
 ルイーズは目を輝かせ、本当?と何度も確かめた。ペトロニーユは彼女の手を取り、約束するよとウインクをする。有頂天になったルイーズは鼻歌を歌いながら、くるくると自身の楽屋に戻っていった。それを見届けると、ほっと胸をなで下ろし再び歩き出す。
 向かったのは、いくつかある踊り子たちの共用楽屋の一つだ。踊り子主席やそれに類する立場の役者は個室を与えられているが、それ以外は皆三~四人で一つの部屋を共有している。
「失礼するよ、マドモアゼル」
 中に入ると、一人の踊り子が部屋の隅でうずくまっていた。それを心配するようにルームメイトであろう少女たちが取り囲んでいる。
 踊り子が踊りの講師にしごかれ、涙を流すことはよくある。が、彼女の泣きようは尋常ではなかった。毛布にくるまり、震えている。まるで、何かに怯えているかのように。
「一体、何があったんだ」
 来訪者に気がついた踊り子達は、はっと顔を上げる。口を揃え、ガルニエ様!と叫んだ。ペトロニーユは彼女らの元に駆け寄り跪くと、事情を尋ねた。
「ああ、ガルニエ様。私達にもわからないのです。コレットは怯えて何も話してくれません。今朝部屋にやってきてからずっと、こんな調子で……」
「わかった。悪いが、少し下がってくれるかい。私からも彼女に話してもらうように頼んでみるよ」
 踊り子たちは頷くと、部屋の入り口の方へと下がる。ペトロニーユはすすり泣き怯える少女、コレットの手を優しく取った。恐る恐る、泣き腫らした目が視線を上げる。
「ガ、ガルニエ様……」
コレット、嗚呼かわいそうに。こんなに怯えて辛かっただろう。もう大丈夫だ、私がついているよ。だから、何があったか話してはくれないか」
 瞬間、コレットは堰を切ったように泣き出した。そして、驚くべき一言を放つ。
「私、わたし……〈オペラ座の怪人〉を見たの!」
 その言葉を耳にした踊り子達は、皆悲鳴を上げる。ペトロニーユも整った眉を歪めた。
「〈オペラ座の怪人〉ですって!」
「それは本当なのコレット
「まあ、なんてこと……!恐ろしいわ」
 口々に騒ぎ立てる踊り子へ向けて、口元に人差し指を添える。
「静かに。今はコレットの話を聞こう。続きは話せるかい」
 コレットは頷き、呼吸を整えると、ことの顛末を話し始めた。
「今日は私が楽屋の掃除当番だから、夜明けの一番でこのオペラ座に来たの。楽屋入り口から入ろうとしたわ。でもまだ管理人が開けていなかったみたいで、だと鍵が開いていなかったの。だから、仕方なく楽屋裏のもう一つドアから入ることにしたわ。この時から私、すっごく嫌な予感がしていたの」
 楽屋裏のもう一つのドア。昼でもどこか暗く、薄気味悪いと有名な場所だ。早朝と深夜に管理人が施錠のため出入りするため、開いていることの多い扉だが、殆どの役者と職員は使いたがらない。
 なぜなら、その場所がオペラ座の怪人の出現場所として有名だからだ。
「そして薄暗闇の中、私は見たの!赤く滲んだずだ袋を持った怪人の姿を!」
 踊り子達は悲鳴を上げる。興奮状態となったコレットはまくし立てるように続けた。
「その姿の恐ろしいこと!真っ黒なマントに血のよな赤毛、顔は骸骨のよう!死神がいるのなら、きっとあんな格好をしているに違いないわ!」
「黙りなさい!」
 突如飛んだペトロニーユの怒声に踊り子達は息を止めた。俯く黒髪の隙間から、見開いた目が覗くことに気づいたコレットは青ざめる。
「も。申し訳ありませんガルニエ様……」
「……いいや、誤るのは私の方だコレット。驚かせてしまってすまない。つい感情的になってしまった」
 ペトロニーユは軽く指を鳴らすと、こぼれ落ちた涙をシャボンのように浮かせ。拭う。
「実のところ、私も少し怖がりでね。恥ずかしながら、怪談の類いは苦手なんだ。かの有名な〈オペラ座の怪人〉についてとなれば尚更、ね。他の踊り子達には秘密にしておいてくれないか、」
 その言葉に踊り子達はほっと胸をなで下ろす。
 オペラ座の怪人。それはこの建物が建てられた時から流れる、普遍的な怪談話の一つだ。全身を包む黒いマントに、色あせた赤髪。そして、骸骨のような顔面。その死神のような姿をした怪人は夜な夜なオペラ座を徘徊し、この建物のどこかに存在する至宝を狙う者を殺すのだという。怪人の正体は人々の格好の話の種で、初代の支配人が生み出した魔物という説や、〈獣の病〉をもって生まれた人物のなれの果てという説もある。
 特にコレット達のような若いバレリーナは怪人を恐れていた。
「例の出入り口か……あの辺りは使わなくなった大道具が捨て置いてあるからなぁ。もしかしたら、それを見間違えたのかもしれないよ」
「でも……」
「ああ、怖いだろう。私もだ。念には念をおいて、見回りを増やすように手配するよ。もし、怪人でも大道具でもなく生身の人間だったら、別の意味で恐ろしいからね」
 さてと、とペトロニーユは立ち上がった。
「今日は踊り子のみんなで一緒に帰ろうか。もちろん、私もついて行くよ」
 コレットはぱっと顔を明るくし、礼を言う。他の踊り子達も頭を下げた。
「ただ、約束して欲しいことがある。〈オペラ座の怪人〉については、今この場に居る私達だけの秘密にしよう。他の踊り子達が怖がってしまったら次の公演に支障が出てしまうかもしれない。お願いできるかな」
 踊り子達は皆、一様に頷いた。
 その日オペラ座にいた踊り子たちは、ペトロニーユに連れられ近くにカフェに出向いた。愛らしい少女達がとろけるような甘さのスイーツに舌鼓を打ち、至福のひとときを過ごす。その光景は周囲の人々の心も和ませる結果となった。
 怯えきっていたコレット達も、怪人のことを忘れ不幸な一日を小さな思い出に変えた。
 ただ一人、二人きりのデートと勘違いしていたルイーズだけは終始ふくれっ面でフォークを握っていたことを覗いては。

・・・

 深夜、草木も眠る午前二時。オペラ座では一つの影が、足音も無く彷徨っていた。真っ黒な外套と伸ばしきりの赤毛を垂らし、一人静まった廊下を進む。
 灯りのない暗黒の中、ぬらりと淡白く浮かび上がる右半分の仮面。青い左の瞳は終始辺りを見渡し、処分対象がいないか目を光らせていた。
 ふと、背後で僅かな布擦れの音が聞こえる。人の気配だ。
 手に持っていた鎌を振り上げ、瞬時に重心を変える。くるりと踵を返し、侵入者と思しき人物の首元に刃を突き立てた。
「おっと、怪人殿、。見回りご苦労だ」
「……!」
「武器を下ろしてくれないか」
 瞬時に思考を巡らせ、耳馴染みのある人物のものだと理解すると、口元が緩んだ。
 言われたとおりに刃を下げる。
「やあ、エステル」
 声の主はこのオペラ座の支配人、ペトロニーユだった。エステルと呼ばれた仮面の女は、くすりと笑みを浮かべ、口を開く。
「驚いた。貴方がこんな時間に会いに来るだなんて」
「君に会いたくなってね。駄目だった?」
「いいえ、いつでも歓迎。でも急に来られたら驚いてしまうわ」
「失敬失敬」
 赤髪の女は、柔らかな笑みを浮かべる。無骨な金属と可憐な女性の組み合わせは、アンバランスかつどこか退廃的であった。
「相変わらず、可憐だね。ああ、君がかの〈オペラ座の怪人〉だなんて、誰が想像するだろうか」
 パリの人々が恐れる〈オペラ座の怪人〉。その正体こそ彼女、エステルだった。彼女はペトロニーユの生まれるずっと前、オペラ座がこの地に建設されたその時から、当時の支配人の依頼で深夜の見回りを生業として生きている。その存在を知るのは、支配人を務めるガルニエ家の当主たちのみ。現在ではペトロニーユだけだ。
「いつもそう言うわね。何十年も前から……それこそ、まだドレスを着ていた頃から」
「君はあの頃からずっと美しい」
「貴方は随分と見た目は変わってしまったけど。私にとっては小さなペティのまま」
 祖父以外に家族が居なかったペトロニーユが、歳の離れた友人に懐くのは必然だった。母のように甘え、姉のように敬い、恋人のように慕った。エステル自身も、幼い少女の友愛を受け止めそれに応えていた。
 二人の友人関係は今でも続いている。あの時と変わらぬまま、穏やかで少し神秘的な関係。少なくともエステルはそう思っているようだった。
「今夜は少し、ご一緒しても良いかな」
 エステルは頷くと、ペトロニーユの歩幅に合わせゆっくりと歩き始めた。上等な革靴が、カーペットに沈み、耳触りの良い音を立てる。
「それにしても、今日はどこか顔色が良くない。何かあったのかい」
 エステルは焦るように周囲を見渡すと、恐る恐る、少し……と呟いた。
「今朝、侵入者の処分のために外に出たら、若い踊り子に姿を見られてしまって。今日、貴方がお話していた彼女ね」
「見ていたのかい」
 こくりと赤い髪が揺れた。
 建設当時からこの場所に住むエルテルは、誰よりもオペラ座の内部構造について熟知している。表の通り道から抜け道まで、全てを把握していた。曰く、今日の騒動も裏から眺めていたらしい。
「最初は覗くつもりはなかったのよ。でも、どうしても気になって」
「優しいね。少し驚いていたようだけど、今は落ち着いている。それにしても君が地上に上がるとは珍しい。何かあったのかい」
「昨晩見つけた侵入者が、炎の魔術を使う魔術師だったの。酷いのよ、地下道いっぱいに炎を溢れさせて……そのせいでいつも使っている通路が開かなくなってしまったの」
 普段使用している死体遺棄用の下水道へ向かうには、一度地上へ出る必要があった。夜明けの誰も居ない時間帯を見計らったはずだが、偶然にも踊り子に見つかってしまったのだという。
「それは災難だったね」
 ええ、とエステルの小さなため息が零れた。
「ほんの少し、太陽の下へでてきただけで騒ぎを起こすなんて、申し訳ないわ」
 俯く表情に、ペトロニーユの眉間が狭くなる
「ねえ、エステル」
「なぁに」
「君もそろそろ地上で生活しても良いんじゃないか。来年で五〇年になるんだろう。先代、お祖父様への面目も立ったんじゃないかな」
 顔を覆う赤い髪を、そっと耳にかけてやる。隠れていた緑色の瞳が、寂しげな色をたたえていた。
「そう、かしら……でも」
 口ごもるその理由には、心当たりがあった。
『生涯をこのオペラ座と地下で過ごす』
 エステルと祖父の間で交わされた、この契約のせいだ。五〇年近く前のものであるが、今でも律儀に守り続けている。
「あれは支配人一族のガルニエ家との契約だろう。代替わりした今、君の雇用主は私だ。私が内容を変えれば君は出てきてくれるのかい、エステル」
「そ、そうね。確かに貴方の言う通りだけど……」
 目を泳がせ、視線を合わそうとしない。そうまでして、出たくないのだろうか。
「……わかった」
 ペトロニーユは、内ポケットから小さなケースを取り出した。
「開けてみて」
 受け取ったケースを開くと、黄金に輝くインタリオリングが収まっていた。中心にはオペラ座の紋章と、一九〇八年の文字が刻まれている。サイズは小さめでエステルの指にぴったりと収まる。
「今年は私が支配人に就任して一〇年の記念の年なんだ。今日完成したばかりで、どうしても早く君に渡したかったんだ」
「もう?そんなに経ったのね。時が流れるのは早いわ」
 受け取ったリングを愛おしげに見つめ、エステルは微笑んだ。
「でね、今月の末に記念公演があるんだ。その時、一緒に観劇してくれないかな。オペラ座の中だから、きっとお祖父様の約束を破る事にはならないし。君が誰にも見つからないように通路を確保するし、専用のボックス席をとっておくよ。五番ボックス席だ。一番眺めのいい特等席なんだよ。ね、だめかな」
 エステルは少し悩ましげに首を傾げるも、観念したように口を緩め言った。
「そんなに言うなら、仕方がないわ」
「やったあ!」
 凜々しい佇まいを崩さないオペラ座の支配人らしからぬ喜びように、エステルは懐かしさを覚えクスリと笑った。まるで幼い頃に戻ったようだ。
「そうか、じゃあ新しいドレスを見繕わなければ。靴も、髪飾りも、化粧品も!それに、その仮面も」
 ペトロニーユは、エステルの右半分を覆う白い仮面に目を向けた。白く濁った陶器の仮面。オペラ座の怪人が骸骨、死神と呼ばれる所以に当たるものだ。
 エステルの細い指が、冷たい仮面に触れる。
「……こんな仮面、本当は君に着けさせたくなかった。本当は着ける必要なんて無かったはずなのに」
「優しいのね、ペトロニーユ。あのね、貴方がくれたこの仮面、私結構気に入っているのよ」
 エステルの浮かべる表情に、嘘偽りは一つもないだろう。だが、彼女の仮面の下に深く刻まれた傷を思うと胸が痛む。
「それなら良かった。錆ついてしまった扉があったはずだ。それを直しておこうか。その手の魔術なら、私の得意分野だ」
「嬉しい。助かるわ」
 二人は並んで、オペラ座の地下へ続く道を目指す。舞台裏の細い廊下へとやってくると、行き止まりの壁から数えて五つめのタイルに触れる。力を入れて押し込むと、タイルは凹み、壁の向こうでかちりと音が鳴った。絡繰りの起動音と共に壁が回転し、地下へと続く階段が現れる。
 ペトロニーユが指先をくるりと回すと、壁に並ぶ燭台に一斉に灯が点った。こつこつと靴音を鳴らし、二人は地下へと降りる。
「魔力で動く扉にしてくれれば楽なのに。お祖父様はなんでこんな面倒な造りにしたんだか。この前だって、押すタイルを間違えて小一時間格闘していたんだよ」
「それは災難ね。でも、この絡繰りのお陰で私は安全に暮らせているのよ。魔力式だったら、直ぐに誰かに気取られるもの」
 なるほど、それもそうだ。
 階段を降り、現れた地下道を進んでいくと、壁沿いに扉が一つ現れる。ペトロニーユが取っ手に手をかけて揺すってみるもびくともしない。
「ははは……これは酷いね。私でも動かない」
「大丈夫かしら、治せる?」
「任せて」
 ペトロニーユは目配せすると扉に掌を押し当てた。指先に魔力を集中させ、扉の構造と接続する。頭の中に、情報が流れ込んできた。
「熱と錆で扉がくっついているようだね。大丈夫、すぐによくなる」
 再び魔力を流し込む。今度は扉と壁の隙間に、圧力をかけるように。すると、みしみしと軋む音と共に、細かな錆が落ちてきた。その後、重い衝撃音と共に扉が静かに開いた。
「まあ、ありがとう本当に助かるわ……私が魔術を使えればこんな手間をかけさせないで済んだのに」
「いいよ。君が使えない分、何度だって私が手を貸すよ」
 そう言って、エステルの手を取った。手袋越しに触れる小さな手の暖かさは、ペトロニーユだけが知っていた。

・・・

 フランス有数の巨大なキャンパスに、ぽつんと一人の青年がいた。亜麻色の髪に、オリーブ色の瞳を持っている。決して派手な顔立ちではないが、人あたりのよい柔和な造りをしている。
 名はセザール・ラファイエット。この学院の学生だった。彼はどこか青ざめた覇気のない表情で廊下を歩く。
 周囲の学生の喧騒の声が脳に響く。皆、笑い合い、青春を謳歌し楽しんでいる。あんな余裕が自分にあったら、どれだけ今心が軽いか。ありもしない空想をするだけでも、自分への憎しみが募るばかりだ。
 時刻を知らせる鐘が鳴る。周囲の学生達は皆話しながら校舎の中へと入っていった。セザールもそれに続く。
 手帳を開き次の授業の内容を確認すると〈解剖〉と描いてある。大きなため息を吐いた。この学校で開講される授業で、最も重要な学問の一つだ。学生たちはこぞって第一志望に書き込む人気があるが、セザールはどうしても苦手意識を感じている。だが装幀師として生きる道しか用意されていない彼にとって、避けては通れぬ道だ。
 セザールの通う大学、国立パリ・ルリユール大学は、魔書を製作する装幀師の育成に特化した教育機関だ。三〇〇年以上前からこの地に校舎を構え、数多くの魔書の製作に携わり、数多の装幀師を排出している。
 現在、研究が進み需要が高騰している魔書・装幀師の界隈は、今最も安定した職業の一つと言われている。装幀師になれば将来三世代は安泰と囁かれる程だ。故に、入学志願者も多く、倍率は二〇倍以上に上っていた。
 名門と呼ばれるこの大学に主席で入学したセザールは、不本意ながら多方面から将来を期待されている。フランス魔書協会においても権威と言えるラファエット家の子息であるから尚更だ。ただこの期待は重圧となり、小心者の彼の心を押しつぶしてもいた。
「……嫌だな」
 重いため息を吐きながら、教室を目指した。ほのかに香る、つんと匂う薬品の匂いに眩暈を覚えながら、重い扉を開いく。中では実技服に身を包んだ学生と、既に教壇へと立った教授が待ち構えていた。
 ルノー・パンスロン。この解剖学の教示にして、学院で最も厳しいと言われる男だ。
ラファイエット。主席であるお前が、一〇分前行動を怠るとは珍しいですね」
「……すみません」
 嫌みったらしく睨む教授に、すみません……と誤ると、セザールは実技服を羽織った。
「おーい。セザール、こっちこっち」
 こちらに向かって手招きする学生が一人。瓶底丸眼鏡に人懐っこい瞳、毛先の跳ねた子犬のような明るい髪がよく目立つ。
 彼はロジェ・フリムラン。フランスの古参装幀師の中の一族であり、鬼才や常識破りと言われる装幀師を多く排出するフリムラン家の子息の一人だ。
 セザールに話しかける、数少ない人物でもある。
 ロジェに向かって小さく頷くと、教科書を抱えて足早に席に着いた。
「こんにちはロジェ。今日も元気そうだね」
「そういうセザールはあまり元気じゃないみたいだ。大丈夫?」
「ああ、どちらかといえば憂鬱な気分だ」
「そこ!静かに」
 教授の叱咤が飛び、二人は肩をすぼめる。大きなため息の後、チョークが黒板を走る音が始まった。白い字で解剖実習と書かれたのを見て、セザールは一段と顔を青くする。
「今回の授業は予告したとおり、解剖実技の授業です。まず前回のお復習いから始めましょう。では、教科書の一番はじめを開いて」
 生徒達は皆、『素体解剖学』と書かれた教科書を手に取った。セザールも同じ本のページを捲る。表紙を開いて一番始めに描かれている中表紙、そこには六つの三角形が合わさり六角となった図形が載っている。
「では、二三ページを開いて。左の図を見なさい」
 言われるがまま、前回の授業のページを捲る。一面に現れた人体解剖図に、セザールは思わず顔を歪めた。
「〈獣の病〉を患う者の体は、私達のそれと殆ど同一です。ですが心臓付近の粒子臓、手首から指先にかけての発動器官のいずれかにに異常があります。この異常の名称と、彼らの死体を解剖する際に留意しておく点について述べなさい。それでは、フリムラン……フリムラン!」
「えっ」
 突然の指名にロジェは跳ね起きる。先ほどまでノートの端に小さな絵を描いていたせいだろう。ゆらゆらと目が泳いでいる。口を忙しなくぱくつかせる姿は小魚のようだ。
 仕方ない、とセザールは教授から見えないよう机の下でノートを広げる。そして該当の箇所を万年筆の先で指した。
「え、えーっと。〈獣の病〉を患う体は魔力質異常、器官障害、粒子製造障害をかかえており、常人よりも繊細であることが多いです。これらは、製本に使用する臓器でもあるため、扱いは専用の器具を使い慎重に行うべきだと思います」
 ロジェがそう答えると、教授は眉をひそめた。
「……よろしい。本来一年生でも暗唱すべき内容ですが、今回は友情に免じて許しましょう。ではみなさん前へ」
 その言葉と共に、学生達は席を立ち移動する。それに続こうと立ち上がったセザールにロジェが小さく囁いた。
「ありがとうセザール。君のお陰で助かったよ」
「今度からノートは取るんだよ。いくら実技が上手かったって、座学で点を取れなければ卒業できないんだから」
 だよね、と笑うロシェと共に、二人は教壇の前までやってきた。
 大きな作業テーブルの上には、布を被された何かが横たわっている。その中を想像しただけで、セザールは吐き気を催した。それとは対照的に、ロジェの瞳はキラキラと輝いている。
「本日は粒子臓、発動器官の摘出を行います。まず始めに、サンプルについて説明しましょう」
 教授が布を捲ると、底には簡単な服を着せられただけの男の死体が現れた。
「彼は獣の病の中で特に多くの割合を占める〈獣生病〉の患者です。魔術を行使できず、その代わりに獣に姿を変える。発動期間の変質が主な原因ですね。形態によっては人狼病や人魚病と言われることもありますが、元は同じ病気です」
 教授は死体の腕を指差す。肌にはくっきりと赤黒いまだら模様が浮かび、爪は黒く染まっていた。グロテスクな光景に息を呑む声がする。一部は悪態をつき、生理的嫌悪をあらわにした。
「静かに。獣生病の患者は発動器官……即ち手元に異常が現れます。特に丁重に扱うべき場所ですね。爪や肌は製本の装飾にも使いますから尚更。さて、今の時点で質問は」
 呼びかけに、生徒達は首を横に振る。それを確認すると教授はトレーから一本ナイフを取り出した。
「では解体の実演を行いましょう。まず、腹部の臓器の摘出から」
 教授は手際よく死体の服の一部を脱がせた。白い蝋のような胸が現れる。均等な筋肉や生々しく残る傷跡が、かつてこの体が生きていた事を示していた。
「今回は、私が摘出を行います。まずは心臓部分の粒子から」
 ロジェは好奇心に満ちた視線を教授の手元に注ぐ。ふと、すぐ隣から曖気が聞こえた。と振り向くとセザールがハンカチで口元を押さえ、吐き気を堪えている。
「セザール……大丈夫?、じゃあないよね」
 囁くように訊ねるも、セザールは無言で首を横に振る。先ほどから悪かった顔色は悪化し、すっかり白くなっていた。
「無理するなよ。苦手なんだから見なきゃいいよ」
「……大丈夫」
 本当は今すぐにこの場から逃げ出したい。そんな気持ちで溢れていたが、不格好な意地と生まれによる強迫観念がそれを許さなかった。
 教授の手に持ったナイフが、腹の上を滑る。切っ先の通りに道は赤い線が走り、脂肪と肉に切り込みが入れられた。その間を金属の器具がこじ開け、中から赤い臓物が現れる。薬品によって無理矢理鮮度を保たれたはらわたは、天井の明かりを受け、生々しい光沢を放っていた。
 それを目の当たりにした瞬間、セザールは自身の体温が急激に下がった感覚を覚えた。視界は暗黒に染まり、意識はぼんやりと遠くなる。そして体が支柱を失ったかのように崩れ落ちた。
 自分が失神しているのを理解するには、数秒の時間が必要だった。
 五感を完全に手放す直前に耳にしたのは、生徒達のどよめきと、ロジェが名を呼ぶ声だった。

・・・

 目を覚ますと、底は見慣れた木目模様が広がっている。天井だ。身じろぎをすれば、体が柔らかなベッドに包まれているのがわかる。
 この場所には見覚えがある。今まで何度か訪れた場所、学校の医務室だ。
 状態を起こし、霞む視界を晴らすよう辺りを見回す。部屋の隅の机の前に、一人の男性が腰かけているのが目に入る。
「ジェルボー先生……」
 グザヴィエ・ジェルボー。この大学の養護教諭であり、医務室の番人。
 年齢は四〇代前後と聞いているが、老人のように真っ白な髪と林檎色の目を持つ風変わりな男だ。勤務中だと言うのに雑誌を広げくつろいでいる。今までに何度も医務室にやってきたセザールとは、もはや顔見知りと言えるだろう。
 此方に気がつくと、砂糖入りの珈琲を飲みながら軽く手を振る。
「おっ、目を覚ましたかい。待っていな、水を持ってくる」
 ジェルボーは準備室から取り出した水差しとコップを、セザールの枕元に置く。
「気分はどうだ」
「……あまり、よくありません」
「ははは、だろうね」
 大口を開けてケラケラと笑う。見た目も言動も、どこか大雑把な男だ。何も知らない者が彼を養護教諭だと見破ることは、極めて難しいだろう。
「ありがとうございます、何度も何度も」
「別に構わないさ、それで給料をもらっているんだ。そんなことより、友人くんに礼を言った方がいいよ。一人で君を担いできたんだ」
 あの瓶底眼鏡の彼。
 そう言いながら、両目の前で丸を作って見せられた。ロジェの事だろう。
 医務室長は鼻歌交じりに追加の珈琲を淹れ始める。今度菓子などを差し入れしたら喜ぶだろうか、とセザールは考えた。
「なあ、ラファイエット。いい加減自分に枷を科すのは懲りたらどうだ」
 ふとした冷静な声に、セザールは俯いた。
「装幀師にとっちゃ、素体解体は避けられない手段だ。失神するほど苦手なら、今一度自分の進む道を見つめ直すのはどうだ。お前よりも長い年月を生きてきたが、無理した奴の末路を見るのはいつだって心にくる」
 カップに角砂糖を落としながら訊ねる。その言葉にセザールは顔を暗くした。
「そんな顔するなよ。別に装幀の道を諦めろって事じゃあない。少し遠回りや寄り道をするのも悪くないってことだ。ほら、べそかくな。クッキー食べるか」
「……いただきます」
 セザールは皿を受け取り、クッキーの端を小さく囓る。口に広がる甘い砂糖に、思わず目頭が熱くなった。
「……」
「泣くほど旨い。いいぞ、好きなだけ食べ名な」
 ジェルボーは水差しの横にセザールの珈琲を置くと、自身もカップに口をつけながら窓の外を眺めた。小さなボウルに入った小さなクッキーは徐々に数を減らしていく。
 太陽は既に西へ傾き、空は僅かに橙色に染まり始めていた。
「辛いことがあればいつでも話は聞くぞ。ただし、勤務時間までだがな」
 冗談交じりにジェルボーは言った。ありがとうございます、とセザールは礼をすると、ベッドから降りる。
「もう行くのか」
「はい。遅くなるといけないので……」
「そうか、じゃあな」
 手袋を着けた手を軽く手げると、背中を向けセザールを見送った。
 人気のない夕暮れの廊下を歩く。今日開講されるほとんどの授業は終わったようだ。中庭では帰宅する生徒達が校門に向かって歩いて居るのが見える。近くのカフェテリアで温かい飲み物を買い、その様子をじっと見下ろした。
 すると廊下の端からなにやら騒がしい声が聞こえる。ふと見ると向こうから小走りで駆けてくる人影を見つけた。手を大きく振りながら此方に一直線にやってくる。
 目をこらすと、それがロジェだとわかった。
「セザール!体調はもう大丈夫?……まだ顔色は良くないみたいだけど」
 もう少し休んでおけば?と言われるも、セザールは首を横に振る。
「長居していたら学校にも迷惑だろうって思って。それに、今日は父さんが帰ってくる日だから早く家に帰らなきゃ」
 そうかぁ、とほんのり太い眉を八の字に下げると一緒に外を眺め始めた。
「ねぇ、そんなにお父さんが嫌なの?」
「えっ、」
 セザールは俯いていた顔を上げ、背筋をピンと伸ばす。
「だって、君が体調を崩す時。大抵解剖の日かお父さんが帰ってくる日だろう」
 指を折りながら、今まで医務室に入った日を思い出していく。彼の言うとおりだった。
「……別に、嫌いって訳ではないよ。ただ、少し苦手なだけだ」
「それって、苦手になる理由が合うってことだよね。うん、まぁ、確かに厳しい人だけど、君がそうなる接し方をしているのも問題だと思うよ。君が僕のパパの息子だったら、でろんでろんに甘やかすに決まってる」
 主席で、礼儀正しくて、あと見てくれも悪くない。
 ロジェはセザールの長所と思われる点を、ぽつぽつと上げていく。聞いている方はたまったものではなく、顔を真っ赤にし、話にかぶせるように口を開いた。
「買いかぶりすぎだよ。所詮、座学と装幀知識だけの話さ。今に解体の成績が入れば、僕は半分以下の順位に転がり落ちるだろう。解体のできない装幀師だなんて、装幀師とは呼ばれないよ」
 そうかなぁ、と明るい色の髪が揺れる。
「今はさ、解体から製本まで全部一人の装幀師がやっているけど、いつか分業制になると思うんだ。だって、その方が効率的だし、いろいろな本を沢山作れる。パパは大量生産大量消費とか言ってたけど」
 ロジェの言葉は的を射ている、そうセザールは思った。
 実際、昨今の戦争によって多くの魔書が使用され、勝利のためにはより多くの魔書が必要となってきていた。従来のただ一人で行う製本では間に合わなくなってきている。そのため一部の装幀師の間では分業制の導入が支持する者が始めている。その筆頭がロジェの実家、フリムラン家だ。
 だが、歴史と伝統を重視する装幀師の間では分業制は嫌悪されており、今だ実行される気配は居ない。
「……そうだ!」
 ロジェは丸い目をきらりと輝かせた。
「二人でやればいいんだ!僕が解体をして、セザールが製本。苦手な部分をお互いに補えば、きっと新しい魔書が作れると思うんだ」
 ね、と向けられる笑顔にセザールは戸惑うが、思わず頷いた。
 勢いに押された訳ではない。セザール自身も一人で作るよりもそっちの方が気楽だと思っていた。
「やったぁ、君なら賛成してくれると思ったんだ。パパもきっと喜ぶよ」
 それは息子が念願の分業制を行うからだろうか、それともラファイエット家を取り込む機会になるからだろうか。どちらにせよ、貴族の思惑を勘ぐらざるを得ない。
 セザールはそのままぼっうと空を見上げる。すると直ぐ下から人造馬の鳴き声が聞こえた。門の直ぐ側に馬車が止まっている。白い木製の外装に、金に塗られた装飾、そして赤い花の紋章。セザールの家の馬車だ。
「ロジェ、うちの馬車が来た」
「あ、本当だ。降りようか」
 二人が校門の直ぐ側までやってくると、馬車の扉が開き、中から一人の男性が姿を表す。大柄で厳しい目つきの男だ。セザールの身がすくんだ。
「父上……」
「セザール、パンスロン教授から連絡が入った。授業で倒れたらしいな。今はもう平気なのか」
「……はい」
 セザールの父はその視線をロジェへと向ける。
「フリムラン家の息子か。久しぶりだな、父君は息災か」
「はい、おかげさまで!」
 そうかと、一言だけ返すと、セザールに馬車に乗るように告げる。
「わかりました。ロジェ、また明日……」
「またねー」
 セザールが馬車に乗り込むと、脳天気に手を振るロジェを背に、人造馬は動き始めた。蹄鉄が石畳の上をからからと歩く音だけが親子の間に流れる。二人は向かい合ったまま、ただの一言も発しない。
「セザール」
 しびれを切らせたのか、少し苛立った声色で父は言った。その声に気圧され、セザールはまた小さく縮こまる。
「倒れたのは解体の授業だったな。まだ克服できないでいるのか」
「……すみません」
「いい。来年の卒業までになんとかすればいいだけの話だ。他ならぬお前のためだ、必要な支援は何だってしよう」
「ありがとう、ございます」
 厳しい視線の中から垣間見える優しさに、セザールは息苦しさを感じた。
 父はセザールに期待していた。幼い頃から聡明で物わかりのいい子どもだった彼に期待し、時期当主としての教育を施してきた。それをセザール自身も理解し、父の思いに答えようと、全力を尽くしてきたつもりだった。
 だからこそ、それに応えられないと確信したときの絶望は計り知れない。父が自分に優しく接する度に、罪悪感に囚われ逃げたしたくなる。
「そうだ、半年後といえば。卒業制作は決まったか」
 ふと思い出した課題に血の気が引く。
 大学には、卒業と同時に作品を提出する習わしがある。装幀師としての第一作目の製作となるこの課題は、大学で学んだ全てをつぎ込む最も重要な課題と言える。
「たしか、フリムラン家は分業製本に対し、賛成の意見を述べているらしいな。良い機会だ、あの息子と組むのはどうだ。彼は座学はからきしだが、生まれつき手先だけは器用だと評判だ」
「いいんですか、確かお父様は……」
「立場上、表だった意見は言えないが、私も分業制には賛成だ。これからは目まぐるしい時代がやってくる、その主役は他ではないお前達だ。古い考えも大事にするべきだが、新しいことを取り入れるのも必要だと私は思う。御者、このことは黙っていろよ」
「はいよぉ、旦那様」
 脳天気な御者の声に、父は口元に僅かな笑みを零した。
 本当は、魔書なんて作りたくない。本心をさらけ出すにはまだ、セザールに勇気は無かった。
 再び静寂が訪れる。屋敷に着くまでの間、ただぼんやりと茜色の光を浴びていた。