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beast of the Opera  三〈再会〉


 三〈再会〉


 記念公演当日。オペラ座周辺は、着飾った観衆達でごった返していた。ベルサイユを彷彿とさせる賑やかさとは裏腹に、地下は身が凍るほどの静寂を漂わせていた。ただ、一つの部屋を除いては。
エステル。ああ、エステル。素晴らしい。私の見立ては間違いなかった!」
 正装を纏ったペトロニーユは、飾ったエステルをこれでもかと賛美する。褒められた本人は「やめて頂戴」と赤い顔を背けた。
 香油を含ませ結い上げた髪、夜空を映したかのような絹のドレス。薄く乗った化粧に、胸元に添えられ小さな白い花。くたびれた普段着を着ている時も可憐だったが、着飾れば尚のこと。夜に揺蕩う妖精の姫君にも勝る可憐さだ。
「ああ、すまない。そんな顔をさせるつもりはないん。ただ、あまりにも君が綺麗で……嬉しくなってしまった」
「何故貴方が喜ぶの。変な子ね」 
 エステルの頬が緩む。
 さあ行こう、とペトロニーユは細い手をとった。
「今この時の君は、地上のどんな花よりも可憐で、どんな彫刻よりも美しい。呼宵はペルセポネが地上へ戻るその日だ。なんて素晴らしい、春の始まりだ!」
「春はまだ暫く先でしょう」
 本当に、子どものようだ。僅かに口元が緩むのを自覚する。
エステル、何を笑っているんだ」
「少しだけ、昔を思い出していただけよ……懐かしいわ。貴方はお人形を着飾るように、私におしゃれをせがんでいたわよね」
「あの時からずっと、君が美しく着飾る姿を見たかったんだ。もう、最高の気分だよ」
「よく言うわ……あら、もうこんな時間。公演が始まってしまうわ」
 時計の針は、公演二十分前を示していた。
「ああ、そうだね。さあ、行こうかお姫様」
 二人は地下を後にする。
 通路を抜け地上へ出ると、目に入ってきたのは装飾で彩られたオペラ座だった。麗しき支配人の就任十周年を祝うため、劇場もめかし込んでいる。周りに広がる夜の街のきらめきも心なしか、普段より美しく見える。
「パリ中が貴方を祝福しているかのようね」
「照れくさい冗談はよしてくれ」
 オペラ座の中へ入ると、そこは人っ子一人居ない、がらんどうだった。あらかじめ、人払いをしておいたと聞いたが、改めて目の当たりにすると面食らう。
「……驚いた。本当に人が居ない」
「君のためだけに作った、専用の道だ。私と信用できる職員しか知らない。勿論彼らが君を見つけることもないだろう」
 得意げに目配せすると、エステルを確保していたボックス席へと案内した。五番ボックス席。この劇場の最高級シートの一つだ。
「さあ、入って」
 開かれた扉の向こうには、落ち着いた質の良いソファと重厚なカーテン、いくつかの食事が置かれていた。嗅ぎ慣れない香りもする。
「良い香り。香水?」
「東洋の香だ。簡単な目くらましに使えるらしい。今、私達の姿は、他所からは別の者に見えるんだとか。以前屋敷に招いた商人から試しにと買い取ったものなんだが、なかなかに面白いだろう」
 今夜は人目を気にする必要はないよ。得意げに、ペトロニーユは言った。
 そっとバルコニーの下を覗くと、全ての席が埋まる程の超満員。うっすらと幻想的な照明の中、皆公演を今か今かと待ち望み、談笑している。
 眩暈がしそうだ。久しぶりに大勢の人間を観たからだろうか。無意識に後ずさりする。
エステル。もうすぐ開演の時間だ。こちらにおいで」
「ええ……」
 言われるがままソファに腰かけると、ペトロニーユは膝にそっと毛布を掛けた。
 みるみるうちに照明が落ちていく。観客達は一斉に拍手し、会場は身の震えるような喝采に包まれる。ブザーの音が鳴り始めるとともに、緞帳が上がった。
 演目は『ファウスト』。ゲーテによって綴られた、一人の老人と悪魔の取引を描いた物語だ。このオペラ座の人気演目の一つであり、ペトロニーユのお気に入りでもある。
 ふふ、懐かしい。
 まだ幼い頃「君『のジュエル・ソング』が聞きたい」と何度かせがまれた覚えがある。仕方なく歌ったが、自分の歌はお世辞にも上手いとは言い難かった。粗末なジュエルソングしか聞いていなかった彼女が、最高級の歌声でそれを聴ける様になったと思うと感慨深い。
 ペトロニーユはそっと、エステルの肩によりかかる。
「ずっと、君と一緒に観たかった。君の隣でオペラを観たかったんだ。ずっと昔からの私の夢……十年経って、やっと叶った」
「気分はどうかしら」
「幸せだ。今までの人生でも一等」
 暫く、二人は寄り添うようにしてオペラを眺めた。
 物語が中盤にさしかかった頃。エステルの胸がキリキリと痛み始める。
「……っ」
 手を胸に添え、僅かに屈んだ。同時に猛烈な吐き気が襲ってくる。慣れない人の熱気に当てられたせいだろうか。意識も心なしかぼんやりとしてきた。
 エステルの異変に、ペトロニーユが気づいた。
「……大丈夫かい。どこか悪いところでも」
「少し、緊張しただけよ。休めばきっとよくなる」
「外に出て、新鮮な空気を吸おう。立てるかい」
「ええ、でもいいの?折角席を用意してくれたのに」
 構わない。他でもない君のためだ。と、ペトロニーユはエステルの肩を抱え外に出た。
 二人はボックス席を痕にし、劇場内をゆらゆらと歩く。向かった先は、庭園だった。地下への出入り口があるこの場所は、外から見えない中庭だ。凝り性だった初代支配人の設計によって作られたここは、オペラ座の穴場的名物となっている。普段はポツポツと観光客が訪れ、オペラ座内の逢い引き場所として恋人たちに親しまれている。今夜は閉鎖中のため、二人以外に誰もいない。
 手を引かれるまま花の道を歩く。丁寧に植えられた花壇や、整えられた植木はまるで絵本から飛び出してきたかのようで、エステルの童心は踊った。
 たどり着いたのは、小さな広場。小さな噴水と白いベンチのかわいらしいそこは、先代の支配人のお気に入りの場所だった。
「さあ、座って。少し冷えるが」
「ありがとう……」
 ベンチに腰かけ、ゆっくりと呼吸する。ひんやりと冷たい風に、柔らかな花の香りがふわりと全身を包み込む。吐き気は幾分か落ち着きはじめた。
 軽やかな草木の音だけが風とともに流れていく。
「……ごめんなさい。貴方の記念公演なのに」
「そんなこと。君の体の方が大事に決まっている」
 エステルの肩に、一回り大きなジャケットが掛けられた。
「何か、暖かい飲み物を持ってこさせようか。少しここで待っていて」
「ええ」
 子どもっぽく手を振ると、ペトロニーユは植木の道へと消えていく。一人庭園に残されたエステルは、星空を仰ぎ、深く息を吐いた。

・・・

 慣れない正装に顔をしかめ、セザールは鏡を睨みつけた。今まで数度しか袖を通したことのないタキシードは、ぎゅうぎゅうと体を締め付ける。だが、慣れない衣装以上に彼を苦しめるもがあった。
 ネクタイだ。ネクタイが結べないのだ。
 かれこれ一〇分以上は格闘している。おろしたての素材だからだろうか、滑る上に硬く、上手く手順を不滅としても不格好な形に仕上がるのだ。
 眉間を狭め、「これだから正装は苦手なんだ」と悪態を吐く。
「セザール、準備はできたか」
 なかなかやってこない息子にしびれを切らせたのだろう。部屋の外で待っていた父がやってきた。
「おや、随分と前衛的な結び方だ」
「……すみません」
「構わない。今日は私が手伝おう。次回までの課題だな」
 父はネクタイを受け取ると、慣れた手つきで結び上げた。手本のような見事な結び目に、思わずぽかんと口を開ける。
「二〇年結び続ければ誰でも上手くなる」
 屋敷を出ると、既に馬車が扉を開け親子を待ち構えていた。戸が閉まると、鞭の音と共に、軽やかな蹄鉄の音が鳴り始めた。
「セザール」
「はい」
「怪我はまだ痛むのか」
 その言葉に体が冷える。
 先日セザールは、オペラ座の地下へと潜り込み朝方発見された。その解き、軽傷の範囲だがいくつか怪我を負った。勿論説明を強いられたが、流石にオペラ座の地下に行ったとは言えない。ロジェと口裏を合わせ、酒に興味が出たと誤魔化した。執事や妹には無断外出や怪我を酷く叱られたが、父はその姿を遠くで見ているだけだった。以降、今日まで一度たりともその話に触れられていない。
「もう、大体治りました」
「ならば良い。人間はときおり無茶をしたくなる事がある。仕方の無いことだ。だが、命の危険に関わる物事には細心の注意を払いなさい」
「はい」
 セザールの一言と共に馬車が止まる。空を見上げた。先ほどは茜色に染まっていた空も、すっかり藍色のベールを纏っている。普段無い装飾を施されているからだろうか。照明に照らされたオペラ座は、化粧を施されているかのようだった。
 父に連れられるまま、劇場の中へと入る。オペラ座には劇場とは別に、いくつかのホールがあった。今回はその一つでパーティーが開かれている。
 大勢の人間がこの場に集まっているのかと思うと改めて理解する。耳障りな喧騒に、今すぐにでも泥になりたい気分だ。
「客人として、最良の振る舞いを心がけなさい」
「……はい」
 父は、赤い扉の前で止まると、それを挟むドアマンに軽く礼をした。彼らは礼を返すと、持っていた杖で軽く地面を突く。すると、扉はゆっくりと開いた。
 瞬間、香ばしい料理の匂いと人々の談笑する声が耳に入ってきた。
 中には、既に訪れていた観客たちが色とりどりの衣装に身を包み込んでいる。皆、思い思いの交流を楽しんでいた。
 父とセザールが会場に足を踏み入れると、何人かの目ざとい客人がこちらを捉えた。彼らは一目散に此方に歩み寄り、二人は瞬く間に囲まれてしまう。
 彼らは口々に話しかける。
「これはこれは、ラファイエット伯。ご機嫌いかが」
「またお会いできて嬉しいですわ。私のこと覚えていらっしゃる?以前パーティでご一緒しましたでしょう」
「久しぶりだな、ラファイエット。そういえば、君とは何年も食事をしていなかった。そうだ。このあと我が家に来ないか。腕の良いシェフを雇ったんだ」
 観客たちは我先にと父へと声をかけ、その視線を自分に向けようと必死だ。セザールは思わず父の背中へ身を隠す。
「ははは、皆様お元気そうで何よりだ」
 彼らに対しにこりと微笑む父の姿は、今までになく頼もしかった。
 ラファイエット家は、社交界にも魔書学会に広く名を知られている。それ故家柄に財産、そして身内から見ても美しい容姿を持った父の元には、蠅のように人が寄ってくる。彼らの目的はラファイエット家との繋がりそのものだ。繋がりが強固であればある程、この世界では有利になる。中には愛人の座を獲得しようとする猛者までいるらしい。勿論父が、そういった誘いに乗ることは一切なかった。
 セザールは、人間の醜悪さを凝縮したような姿に、思わず顔をしかめる。一方父は顔色一つ変えず、一人ひとりに丁寧に返事を返していく。
「すまない。今夜は息子を連れているのでね。また後日にさせてもらってもいいかな」
 広い掌に肩を軽く叩かれる。緊張でびくりと体が震えた。
「まあ、彼がご子息で。お父様ににて端正な顔つきをしていらっしゃる」
「以前より大きくなりましたな。確か、学生でしたか。うむ、将来、大物になりそうな顔をしている。きっと、歴史に名を残す魔書を作るだろう」
 向けられる視線に囚われないよう、生返事を繰り返す。
 そんなこと、きっと微塵も思っていないんだろうな。
 質問と言葉の雨が降り止んだ頃、突然照明が落とされる。どよめきと共に人々の視線は、ある一点に集まった。セザールもつられて顔を上げる。
 吹き抜けのロビーの二階、バルコニーにてワイングラスを持つ人物にライトが当てられる。一見すればタキシードを着た男性のようだが、顔つきや僅かな仕草で女性だとわかった。彼女は滑らかな動作で礼をする。
「紳士淑女の皆様、今宵はお集まりいただき本当にありがとうございます。お楽しみ頂けていますでしょうか」
 女性にしてはやや低く、骨に響くような張りのある声。歌手だと言われれば納得してしまうだろう。
 セザールはその姿、以前新聞で目にした事があった。彼女こそ、このオペラ座の主。ペトロニーユ・E・ガルニエだ。まだ若いながら、大火災で痛手を負った劇場を復興させた優秀な経営者であり、希有な美貌を持つ男装の麗人名だ。パリの新聞記者や権利活動家、婦人達の憧れの的でもある。
 人々は彼女へ、盛大な喝采を送る。
「本日は私の支配人就任一〇周年の記念すべき日です。今日までオペラ座が輝けているるのは、ひとえに皆様のご愛顧と応援のお陰。本当に本当に、感謝いたします。また、今夜の演目は『ファウスト』。今最もオペラ座で愛される歌劇にして、私の一番のお気に入りです。開演まで今暫くお待ちください」
 上品な仕草で礼をすると、会場の人々は拍手でペトロニーユを称えた。つられてセザールも小さく手を叩く。
 照明が戻り、ペトロニーユが引き下がると、人々はまた談笑を始める。ぼうっと立っていればまた誰かに話しかけられるだろう。セザールは皿を持って、逃げるように食事スペースへと向かった。
 食欲はないが、何か口に含めば気持ちが落ち着く様な気がした。白いテーブルクロスの上には、無数の食事がこれ見よがしに並んでいる。焦燥から手当たり次第に料理を取り、口へと運んだ。だが勢い余ったせいで、大きなチキンが喉に詰まってしまう。
「う、うえぅ」
 嘔吐き咳き込んでいると、水の入ったコップを渡される。飲め、と言うことだろうか。涙の膜で覆われた視界では、目の前にいいる人物が誰かわからない。とにかく胃へチキンを流し込みたかったセザールは、コップを受け取り一気に飲み干した。
「落ち着いて。ゆっくりと飲みたまえ」
「ゲホッ……ふ、ふぅ……ありがとうございま、え」
 顔を上げ、涙を拭う。視界の先に居たのは、先ほどバルコニーで礼をしていた支配人その人だった。彼女はにこりと微笑みながら、陶器の人形じみた顔を此方に向ける。
「し、支配に……ん?」
「ははは、いい顔だね。驚かせてしまったかな」
 形の良い眉をくしゃりと曲げて笑う。そんな彼女の様子をちらちらと眺めながら、セザールはコップを握りしめる。
「あ、ありがとうございます」
「それはよかった。に、しても、君とはどこかであった事がある気がするな……うぅん、こう、頭の隅にあるんだけど、どうしても思い出せない」
「ペトロニーユ、久方ぶりだな」
 首を傾げる支配人の背後から、セザールの父がやってきた。支配人も「ラファイエットさん」とにっこりと微笑んだ。
「就任一〇周年おめでとう。随分と立派になったものだ。君が幼い頃の時の出来事を、まるで昨日のことのように思い出せるのに。ああ、時が流れるのは早い」
「いえいえ。こちらこそ、お越しくださり感謝いたします。どうですか、調子の方は」
「ぼちぼち、といったところだよ」
 親しげに話す父と支配人の姿を目の当たりにし、セザールは目を丸くする。
「そうだ、これのことを覚えているか。一度だけだが、会わせたことがある。と、いっても二〇年も前のことだが」
「彼が」
 支配人の瞳がこちらをじっと見つめる。深い海の底を思わせる瞳に、どこか狂気じみた色を感じた。
「そうか、セザール。あの小さなセザールか!道理で懐かしい顔だと思っった。私のこと覚えているかい」
 思わず反射的に首を横に振り、すみませんと呟いた。
「無理もない。君たちが出会ったのは、たしか……それぞれ八歳と〇歳の時だったからな。君はまだしも、息子は物心のもの字のついていない赤ん坊だった」
「ふふ、そうだ。そうだった。おっと、いけない。用事があるんだ。そうだ、ラファイエットさん。また今度、お食事でもいかがですか。久しぶりにお話しましょう」
「勿論だ。楽しみにしているよ」
 約束ですよ。
 ペトロニーユは綺麗に一礼すると、踵を返し食事スペースを後にした。
「彼に、似てきたな……」
 ぼそりと呟くのを耳にすると、セザールは恐る恐る疑問を口にする。
「父様、あの、ガルニエ様とはどういった……」
「そういえば、話していなかったな。彼女の父親とは幼なじみであり、学院時代の同級生だった。その縁で、彼女とも幼い頃から交流がある」
「ご学友、ですか?」
「お前とフリムラン家の息子のような関係だ。物心ついた時から一緒だった。学校でも家でもよく遊んだものだ。オペラ座の中庭やガルニエ家の庭園は格好の遊び場だった。まさか、娘を残して失踪するとはな……」
 その言葉を口に死した瞬間、父ははっと我に返る。僅かに目を逸らすと、どこか気まずそうに口を開いた。
「言い過ぎたな、今のは忘れてくれ」
 セザールが頷いたのを見ると、父はウェイターを呼び、皿を片付けさせた。平然と保つ立ち姿から、僅かな動揺が見て取れる。
「もうすぐ公演が始まる。少し早いが、席へ向かおう。あの場所なら、お前の気も少しは休めるはずだ。」
 わかりました、とセザールは返事する。二人は宴会場を抜けて、ボックス席のある階層へと向かう。しんと静まり帰る廊下に、カーペットを擦る僅かな音だけが響いていた。
 劇場二階に位置するボックス席には、まで何度か訪れたことがある。扉に掲げられた金色の板には『ラファイエット』の文字が掲げられていた。創設時、当時の当主がオペラ座との親交があり、多額の融資の返礼として送られたものだそうだ。
 セザールは、逃げ込むようにして扉をくぐる。席に着くと、父に勧められたワインを口に含み、そして、ぼうっと舞台を見つめる。いつ見ても過度に美しい、絢爛豪華な出で立ちだ。その過ぎた装飾は、セザールの視界に映る度、心に虚ろを作った。
 暫くすると、先ほどホールにいた観客が一階席へやってきた。静かだった劇場内はざわめきに包まれた。丁度席が埋まった頃。照明が落ち、人々は歓喜の声を上げる。そして、緞帳が上がった。歌劇『ファウスト』の始まりだ。
 盛大なオーケストラ、舞台で踊る一流の役者たち。光に当たって煌めく衣装。多くの案客達は、それらに驚き、感動しするが、セザールにはどうもそれが理解できない。たいしたものだなぁ。と、感心するのがせいぜいだ。
 何度かオペラを見てきては居るが、どうにもこの空間がは落ち着かない。盛大に鳴らされる楽器に、金切り声のようなソプラノ、ちょこまかと動き回る踊り子たち。人々はそれを美しい、素晴らしいと賛美するが、セザールは共感することができなかった。それでも、不満を顔に出すわけにはいかない。
 体裁を気にして毎度我慢して最後まで聞いているのだ。だが父は、劇が気に入ったと勘違いしたのか、ことあるごとにセザールを観劇につれて行く。残念ながら、父親からの誘いを断るほどの胆力は持ち合わせていなかった。
 ああ、嫌だ。
 セザールは、バレないようにため息をつくと、退屈な時間に身を捧げた。
 公演が始まって数十分経った頃。父がそっと耳打ちした。
「どうしました、父上……」
「顔色が悪い。医者を呼ぶか」
 まさか。素っ頓狂な声を上げそうになるのを堪える。この時間が苦痛ではあるが、体調が悪いということはない。むしろ、元気な方だ。
「いいえ、大丈夫です」
「……そう、か」
 父は、セザールの言葉を信じていないようだった。
「無理はいけない。少し外の空気を吸ってくるといい」
「いいんですか……?」
 願ってもない言葉に、声が裏返りそうになる。
「第一部が終わる頃には帰ってきなさい」
 セザールは頷き、ひとりボックス席の外へ出ることにした。扉が完全に閉まったのを確認すると、こっそりと拳を握りしめる。
 突然降りかかってきた幸運に、セザールの気分は浮かれていた。どこで、どうやって過ごそうか。一人で過ごす、そう考えただけでも胸が躍った。
 人気の無い廊下を、一人歩く。普段は観客でごった返しているためか、不思議な気分だ。あいにくレストランは開いておらず、休憩室への道も何故か封鎖されていた。道ばたで立っている訳にはいかない。頭を悩ませているとふと思い出す。
 父が先ほど言っていた。このオペラ座には中庭があったはずだ。あの場所なら、寒さを気にしなければ快適な時間を過ごせるのではないだろうか。
 意を決したセザールは、中庭に向けて足を進めた。廊下の突き当たりに、両開きの扉が現れた。はめ込まれた磨りガラスの向こうには、ゆるやかな照明と暗い緑が見て取れた。
 ゆっくり外への扉を開くと、ふわりと花の香りが鼻孔をくすぐる。目の前に現れたのは、柔らかな光に照らされた月の都の庭園だ。
 オペラ座の閉塞感に縛られていたせいか、思わず足が前に出る。上空一面に広がる星空にため息を吐きながら、庭園の入り口へ向かった。するとそこには、『立ち入り禁止』の看板が立てられていた。こんな時に限って、とセザールは肩を落とす。
 落胆もつかの間、ゆっくりと顔を上げ辺りの様子を伺った。誰もいない、誰も見ていない。確認するとセザールは立て看板の向こうへ踏み込んだ。
 普段、立ち入り禁止の場所に侵入するなんて考えられない。自分でも、何故実行したのか解らなかった。先日の件で気が大きくなっていたからだろうか。それとも、劇場から抜け出した開放感からだろうか。はたまた神秘的な庭の誘惑のせいだろうか。理由はともあれ、足は進む。引き返そうと思えも、体はどんどん庭の奥へと入っていく。
 常緑樹の壁に色とりどりの花。白い石造りの彫像に、愛らしい石畳の道。人気の無さも相まって、どこか別世界に迷い込んだ感覚に陥った。
 セザールはしばらくの間、景色と新鮮な空気を楽しむ。だが、突如耳に人の会話が耳に入ってきた。侵入がバレたのだろうか。思わず立木に身を隠し、気配の後を辿る。
 庭園の奥からだ。向こうから会話が聞こえた。折角の時間を人と話すのに費やすのは御免だ。そう道を引き返そうとした時、心臓が強く鼓動した。聞こえたのは一人の女性の声。そして脳裏に浮かんだのは、夢で見た儚げな赤い髪。
 あの方の、天使様の声だ……!
 例え夢でも、あの声は鮮明に覚えている。鈴を転がすような、春の若草を風が薙ぐのような声。思い出すだけで夢へ誘われるような声。それが近くにある可能性を自覚したときには、セザールの体は声のする方へ向かっていた。
 行き着いたのは、噴水のある小さな広場だ。高鳴る胸を抑え、花壇の影からそっと顔を出す。白いベンチに一人の女性が座っていた。
 その姿を目にしたセザールは、ぽかんと口を開けた。
 くすんだ赤毛の髪に黒いドレス、月に照らされて浮かび上がる。陶器の仮面。絵画から飛び出したかのような強い色彩に、目が熱くなる。
 夢に見た天使が、そのまま現実へと舞い降りたのだ。
「天使様……」
 思わず、声を漏らしてしまう。瞬間、彼女もこちらを振り向いた。空色の瞳には困惑の色が浮かんでいる。
「あなたは……」
「あ、いや、違うんです。違う、と言うわけではないのですが」
 セザールは姿勢を正すと、恐る恐る女の元に近づく。
「貴方はもしや、天使様ではございませんか」
 女性は、天使?と、どこかばつの悪そうな顔をした。
「一体、何を言っているんですか。人違いです」
 困惑する目が視線を泳がせる。セザールは慌てて失礼を詫びた。
「すみません。困らせるつもりでは……その、夢で見た人と貴方が瓜二つで」
「そう、ですか……それはどうも」
 庭園の照明を映した瞳が、ちらりとセザールを見やる。だが直ぐに伏せられた。それきり彼女は俯いたまま黙りこくっている。僅かな会話のせいで退くに退けない雰囲気になってしまう。
 気を利かせて何か話題を出すべきだろう。あが、あいにくまともな対人経験が少ないセザールは、話を切り出す胆力を持ち合わせていなかった。勢いで話しかけることができたのが奇跡なのだ。
 風が庭園を凪ぐ音が、静かに二人の間を抜ける。その沈黙を切ったのは、セザールの方だった。
「貴方も、今夜の公演を見に来たのですか」
「……こ、公演」
「はい、支配人の就任一〇周年の」
 女は、どこか迷ったように頷く。
「僕もガルニエさんから招待されて来たんです。貴方もですか」
 赤い髪がこくりと揺れた。
「で、ですよね。ちなみに誰かといらっしゃっているのですか。僕は父と……」
「なら、早くお戻りになられては。きっとそのお父様が心配することでしょう」
「はい。ですが、私はあまりオペラの公演が得意でなくて。体調も芳しくなかったので外の空気を吸いに来たんです」
「そう、なんですか」
 再び二人の会話は止まった。どちらも口を開かぬまま、じっと時が過ぎていく。
 不意に、遠くで何者かが呼ぶ声が聞こえた。先ほど話していた、もう一人の人物の声だろう。女ははっと顔を上げ、席を立つ。
「連れが帰ってきたようですので、私は戻ります」
 ドレスを軽くつまみ上げ、走ろうとしたその時、セザールは腕を伸ばしていた。
「待ってください」
 細い手首を握りしめ、じっと瞳を見つめる。大して女の方は硬直し自身の手首とセザールの顔を交互に見つめている。
「……なんですか。は、離して。人が来ているんです」
「せめてお名前だけでも。お教え頂けませんか」
「でも……」
 こうしている間にも、呼び声はこちらに近づいてくる。女は少しの間悩んでいたが、観念したように明かした。
エステル。エステルです。これでいいですか」
 待ちに待った言葉を耳にし、セザールは手の力を緩めた。
エステル……美しい名前ですね。エステル、いつかまた会えますか」
「いいえ。二度とないでしょう。さようなら」
 そう言い残し、エステルは庭園の奥へ消えた。彼女がいなくなった後もセザールはその場に立ち尽くし、速まる脈に踊らされていた。手に残る手首の感触を噛み締め、彼女の名をもう一度呟く。
エステル」
 熱くなる頬を夜風が冷やす。余韻に浸り空を仰ぐと、先ほどよりも大きくなった月がこちらを見下ろしていた。

・・・

 庭園から逃げるように帰ったエステルは、ボックス席のソファで縮こまる。劇場は第二部へ向けての準備中だ。観客達も今か今かと再会を待ち望んでいる。ペトロニーユも、軽食を摘まみながら緞帳が上がるのを待っていた。
 左手首に残る感触に、身震いしながら受け取った毛布を握りしめる。
 先日地下道に迷い込んだ青年・セザールと再会した。まさか、彼が夢と勘違いしているとはいえ、自分の事を覚えていたとは。天使と呼ばれ、名前を尋ねられた。あの時の真っ直ぐな視線が、今でもどこからか注がれて居るいるような感覚がして焦燥が身を焦がす。
 あの時、ペトロニーユが帰ってこなければどうなっていたことか。彼女がいて、本当によかった。
「大丈夫かい、エステル。体を冷やしてしまったのか」
「……少し。でも温かいワインを貰ったお陰で、暖まってきたわ」
「なら、何故こんなに震えているんだ。もしかして、私のいない間に何か……」
 エステルは首を振る。本当よ、少しただ冷えただけ。そう言ってもペトロニーユは信じていない様子だった。
「そうか……?わかった。君の言葉を信じるよ」
「ありがとう」
 心地良いアルトが、すっと耳に馴染んだ。
 照明が落ち、『ファウスト』の第二部が始まる。この部では、マルグリートがジュエル・ソングを歌うシーンがあった。ペトロニーユのお気に入りのシーンだ。心待ちにしている様子が、暗い中でもわかった。
 そしていよいよ、ジュエル・ソングが始まった。
 可憐な歌手の歌声は、硝子のように透き通り、芯のあるあるソプラノだ。美しいマルグリートに観客達は魅了される。エステルもその一人だった。
 ジュエル・ソングを聴くのは何十年ぶりだろうか。ずっとうろ覚えでいたものだから、勘違いしていた箇所も多い。これを平然と歌っていたなんて恥ずかしい。
 思わず顔が熱くなった。それに気づいたペトロニーユは、すぐさま耳打ちする。
「君の歌も十分美しいよ。なんたって、私の初めてのマルグリートなんだから」
「……ちょっと、恥ずかしいじゃない」
「ふふふ、真っ赤になってしまって」
 そんな冗談を交わしているうちに演目は終了。大喝采の中幕は下ろされた。明るくなった劇場から、観客達は次々と席を立っていく。
「素晴らしかった。やはりファウストはいいね。贔屓目なしでも傑作と言える」
「確かに。私も今まで見た物語の中でも一番好きよ」
 本当かい、と細まった目につられて口元が緩んだ。
 部屋のドアがノックされる。ペトロニーユは返事すると、外へ向かった。口調からして、秘書か何だろう。短い会話の後、彼女は部屋に戻って言った。
「すまない、急用が入った。少しの間、ここで待っていてくれないか」
「勿論よ。まだまだ食事はあるし。本でも読んでいるわ」
「ありがとう。じゃあ、行ってくるよ。」
 微笑み目配せをすると、ペトロニーユはボックス席を後にした。
 自分一人だけとなった小さな小部屋で、エステルは一人ぼうっと軽食を摘まむ。フルーツにパン。チーズまで。改めてみれば、なかなかの種類が揃えられていた。備え付けのフルーツを摘まみつつ、劇場内を見やる。五〇年以上前のこけら落とし公演以来だ。
「随分と立派に……愛される場所になったのね」
 過去に火災が起こったことも忘れ、しみじみと感傷に浸る。この劇場の建設に、初代支配人……ペトロニーユの祖父が注力しているか知っていた。
 パリ一番の名所に育てるんだ。
 そう輝いていた彼の妻の瞳の色は、今だ色あせず記憶に刻まれている。ああ、あの時は楽しかった。思い出の頁を捲っていると、どこからか注がれる視線に気がついた。
 肌を震わせるような緊張感。それに急かされるようにして、バルコニーから周囲を見渡した。すると視線の主は直ぐに見つかる。エステルの額を冷や汗を伝った。
 彼だ。
 先ほど自身の左腕を握った青年、セザールだ。
 遠い空間越しに目が合う。思考が硬直し動く事ができない。何故、彼は此方を凝視しているのか。他所からは、別の姿に見えているはずじゃないのか。
 ふと香を見る。どうやら全て焚ききったようで、小さな皿の上には灰だけが乗っていた。香りに鼻が慣れてしまったせいで気づかなかったのだろう。
 早く、早く視線の外へ逃げなければ。
 震える手でカーテンを掴み。思いっきり滑らせた。レールを進むけたたましい滑車の音と共に、ボックス席が薄暗くなる。
 閉めソファに座る。果実を口に放り込み、気を紛らわそうとするが、脳裏に浮かぶのは彼の、セザールの顔だ。じっと此方に向けられるオリーブ色の感覚が途切れることはない。
 どうしよう、この部屋にやってきたら。部屋をノックされて名前を呼ばれたら。
 考えれば考えるほど、装丁は最悪の方向に向かっていく。
「ああ、いやだ」
 脈拍する胸を抑えようと、ゆっくり呼吸を繰り返す。頭の中に、心音だけがどくどくと響いた。
 徐々に恐怖に包まれていた思考が、ぼんやりと薄くなる。今までの気苦労のせいだろうか。瞼はゆっくりと下がり、ついには眠ってしまった。

 ・・・

エステル。起きてエステル」
 肩を揺すられ、目を覚ました。遠く、心地良い声が耳に入る。うっかり寝てしまったのだろうか。そう自覚しゆっくりと目を開ける。見れば、ペトロニーユが小さく眉を下げ、子犬のようにこちらを覗き込んでいた。
「……大丈夫かい。やっぱり、体調がよくないんじゃ」
「お酒を飲みすぎただけよ。少しはしゃいでしまったの」
「それなら良いんだけど……今日は早めに眠った方が良いかもしれない。今日はもうお開きにしようか。何か気に入ったものがあれば地下に持ち帰るといい」
 二人は五番ボックス席を出て、人のいない静まり帰ったオペラ座を歩く。照明のいくらか落ちた廊下にどこか安心感を感じる。
「今日は沢山のお客様がいらっしゃったのね。超満員だったわ」
「それはどうも。お祖父様のときと、どっちが多かった?」
「同じ位よ。ふふ、張り合ってどうするの」
「いいじゃないか聞くくらい。ねぇ、なんで笑っているんだい」
「妬いているのかしらって思って。やだ、そっぽを向かないで」
 わざとらしく顔を逸らすペトロニーユを、エステルは優しく窘めた。
「今日は、とても楽しかったわ。大好きな貴方が、沢山の人に愛されて慕われているの見ることができて。自分の事ではないのに、嬉しかった」
「ありがとう。でも、私の一番はいつだって君さ、エステル」
 ペトロニーユは、職員用入り口の扉に手をかける。
「いいのかい。地下まで送らなくて」
「大丈夫よ。貴方も今日は疲れているでしょう」
「心遣い感謝する。君も気をつけて帰ってくれ」
 扉が開き、冬の風が隙間を抜ける。エステルは意を決し、口を開いた。
「最後に少し、聞いてもいいかしら」
 ペトロニーユは「なんだい」と首を傾げる。
「ここの階のボックス席って、普段とか今日とか、どんな人たちが座っているのかしら。少し、気になって……」
「珍しいな、君がそういうものに興味を持つだなんて。確か、お祖父様の代からの知り合いや、貴族用の専用席だったはずだ」
 ペトロニーユは少し、首を傾げる。
「……でも、誰がどこに座っているかは把握していないな。全部秘書に任せているから。そうだ、明日の朝までネームプレートをそのままにしておく予定だから、気になるなら見に行ってみるといい」
「ありがとう。そうさせてもらうわ」
「うん。じゃあ、おやすみ。良い夢を」
「ええ、今夜はしっかり眠って頂戴」
 ペトロニーユは、無邪気さの残る表情で笑った。
「もちろんだよ、また明日」
 扉から、かちゃりと鍵がかかった音がする。施錠されたことを確認すると、エステルはボックス席の並ぶ廊下へと向かう。
 端から数え、丁度五番ボックス席の対角に当たる席を見つける。聞いたとおり、扉には部屋番号と、金色のネームプレートが掲げられていた。
「……ラファイエット
 エステルに巡る血が、一気に下へと降りた。
 ラファイエットといえば、フランスでも有名な装幀師一族の家柄。かつての王家に連なる血を引く貴族だ。このパリに身を置くものであれば、誰もが知っている。
 ぞくりと背筋に寒気が走る。心なしか手も震えていた。
「……まさか。いや、関係ないはず。気のせい、気のせいよ」
 僅かに露出した首筋に鳥肌が立った。
 きっと、体を冷やしてしまっただけだ。そう自分を欺し、エステルは地下の自室へと戻った。

・・・

 記念公演から一夜明けてもなお、セザールの胸の高鳴りは止む気配はない。
 自室で勉強を進めようとしても、脳裏にはあの赤い髪の女性……エステルの姿が浮かんでくる。忘れよう、忘れようと教本を覗き込んでも、目が滑ってしまう。
 昨晩目の前に現れたあの姿。櫛の通った柔らかな髪に、遠くを見据えるような澄んだ瞳が忘れられない。女性に対して魅力を感じた事は何度かあったが、彼女のそれは、今まで経験全てを上回る。絡みつく花の蔓のように思考を拘束するのだ。
「……駄目だ」
 勉強を諦めたセザールは、ベッドに横になる。
 劇場を立ち去る最後の瞬間、彼女と再び相見えた。広い一階席の吹き抜けを挟んで、丁度対角にその姿を見つけたのだ。視線を交わしたあの数秒間、まるで時が止まったようだった。
 運命だ。
 セザールがそう確信するには時間を要さなかった。
 三階のボックス席にいるのならば、きっと名のある貴族の令嬢なのだろう。年齢もセザールとそう変わらなく見えた。既に社交界に出ていてもおかしくない。
 もう二度と会うことは無い、そう言われた。だが、いつか再会できるという根拠のない自信が胸の内に確かにあった。
 どうすれば、エステルともう一度会うことができるのだろうか。フランス中の貴族の中から探すか、もう一度オペラ座に向かうか。どちらにせよ、セザールにとって苦手な手順を踏まざるを得ない。だが、それでも構わないとさえ思った。
「……君に会いたい」
 無意識に、シーツを握りしめる。ぽつりと呟いた声が、昼下がりの部屋に消えた。
 直後、部屋に力強いノック音が響く。どうせ執事か妹だろうと踏んだセザールは、気に抜けた声で返事した。
「はぁい……」
「セザール、勉強の調子はどうだ」
 聞こえた低い声に、ベッドから跳ね起きる。父だ。慌ててシーツを整え、先ほどまで勉強に励んでいたように装った。緩い返事をした事を後悔する。
「あ、はい。順調です。入ってどうぞ……」
 短い返事と共に父が部屋に入る。仕事から帰った直後なのだろう。正装を身につけていた。強い威圧感に、思わず身構える。
「勉強中すまない。少し様子を見ておきたくてな。うむ、元気そうだな。よかった」
 昨晩、観劇を途中で抜けたことを心配しているのだろう。あの間に、息子が立ち入り禁止の庭園でうつつを抜かしていた。なんて、きっと夢にも思っていないだろう。
「顔を見るついでに一つ、報告があってな」
「知らせておくこと、ですか」
 そうだ、と父は話を続ける。
「会食で会った支配人のを覚えているか。ペトロニーユ・ガルニエ女史なんだが」
 セザールは頷いた。ドレスを来た婦人ならまだしも、男装の麗人を忘れることなどそうそうない。
「来週、彼女と食事の席があるんだ。お前も一緒にどうかと思っている」
「……!」
 はっと顔を上げる。
「食事の席、ですか」
「ああ。卒業制作も近いだろう。彼女も学院出身だから、なにか参考になる話が聞けるかもしれない」
 セザールは頷いた。
 これは間違いなくチャンスだ。オペラ座の支配人であれば、招待客……エステルについて何か知っているかもしれない。
 胸が高鳴るのを感じる。
「勿論、学校の課題もあるだろうから無理強いはしない。余裕があれば……」
「い、行きます!」
 身を乗り出すように答えるセザールに、父は一瞬あっけにとられる。だが直ぐにわかった、と頷いた。
「当日の馬車を手配しておこう。お前も時間を空けておきなさい」
「はい」
 父はどこか満足そうに部屋の外へ出た。
「そうだ、ネクタイを結ぶ練習もしておくことだな」
「わかりました」
 ドアが閉まったのを確認すると、セザールはベッドへ飛び込んだ。全身を包む高揚に溺れ、足をばたつかせる。
 会える、きっとまた会える。
 まだ何も事が進んでいないはずなのに、確証だけはあった。
 今度出会えたのなら、何と話そうか。まずはあの晩の失礼を詫びるところから始めよう。そしてお互いの好きなものについて話して、食事をして、いつか婚約をする。それならば、いつか家督を譲り受けるその日までに、立派な装幀師としてより一層勉学に励むべきだろう。
 気が早いにもほどがある。暫くすると、胸の奥に芽生えた羞恥心がじわじわと脳を刺激した。
 ふと時計を見ると、時刻は十四時を回っっていた。今日はロジェと卒業制作について話し合う日だ。約束の時間までまだ準備をし、玄関へ向かう。
 家を出るまでの間、使用人と何度か擦れ違った。彼らは皆、一瞬驚いた顔をしたが、直ぐに穏やかに微笑む。
「まあ、一体どうしたのかしら」
「今日は珍しく表情が明るいこと」
 背後で囁かれる声は、セザールの耳には入ってこなかった軽やかな足取りは、ロジェとの待ち合わせのカフェへと向かう。
 シャンゼリゼ通りはパリ随一の大通りだ。評判に違わず、沢山の人が行き来する。そのせいか近隣には様々な形式のカフェが多く立ち並ぶ、激戦区となっている。通りには、洒落た午後を求める多くの若者達でごった返していた。
 物好きであるロジェは例外に漏れず、シャンゼリゼ通りに詳しい。彼の指定したのは最近できたばかりの新しいカフェだ。セザールは慣れない地図に苦戦しながら、目的地へと向かう。
 目的の店にたどり着くと、彼は既にテラス席に腰かけていた。よく見ると、口の端に小さなガーゼが貼ってある。その状態で無理して珈琲を飲もうとするものだから、ガーゼに焦げ茶色の染みがついていた。
 ロジェはセザールからの視線に気がつくと、しまりなく笑った。ペンだこまみれになった手を振り、友人を呼び寄せる。
「やあ。傷の調子はどう」
「はは、まだ痛むよ。親父、思い切りぶってきたんだもん」
 へへへと笑う。傷が疼いたのか、一瞬顔が強張った。
 先日の地下での出来事によって、ロジェは両親にこっぴどく叱られた。特に父親は激昂していたらしく、頬に平手打ちを食らわせたのだ。普段温厚なフリムラン伯が暴力を振るったと聞いたときは、心底驚いた。それでもロジェは「親父が子どもに手を上げるなんて初めてだ」と笑いながら語った。
 勿論当初の『オペラ座の怪人魔書計画』は頓挫し、企画の立て直しを余儀なくされた。今日集まったのはそのためだ。
「修正案、考えてきた?」
「まあ、それなりに。とりあえず、計画表を見てくれないか」
 セザールは鞄から紙の束を取り出す。それは全て計画表だった。一枚一枚、大まかな設計図とコンセプトが丁寧に書かれている。ロジェは目を輝かせた。
「すごいじゃないか。たった数日でこんなに……」
「君から前の計画を聞く前から、案は練っていたからね。いいよ、好きに手に取って」
 ロジェは計画表を掴み、全てに目を通す。かっこいい、素敵だ、とその都度感想を言うものだから、セザールの顔は徐々に熱くなってくる。。
「ろ、ロジェ、恥ずかしいから、感想は後で良い……」
「なんで?すごいのに。僕じゃこんなに書き出せない」
 しばらくの間、二人は珈琲片手に意見を出し合った。
 この計画には無理がある。材料が足りない。流石に間に合わない、式構成に無理がある。議論は夕暮れ時まで続き、終わった頃には重い疲労感が肩にのしかかっていた。ロジェの同じようで、注文したクッキーを片手に机に突っ伏している。
「こ、これで大丈夫だよね……」
「……ああ、予定通りに行けば完成する……はず、だよ」
 セザールの言葉に安堵したのか、ほっと安堵の息を吐いた。
「終わったー……少し遅いけど、これで作業が始められる……」
「今日にでも取りかかりたいけど、流石に明日からにするか」
「そうだね。ところでセザール。何かいいことでもあったの?」
 何の脈絡もなく飛び出した質問に、口に含んでいた珈琲を吹き出しそうになる。
「な、ななな、なんだよ急に」
「ちょっと、そんなに動揺しなくてもいいだろう。君が魔書についてそんな熱心に話すのに驚いてさ。だって、学校に居るときとか課題について話すとき、いつもどこかしんどそうに話していたんだもん。一体どんな風の吹き回しかなって」
 分厚い眼鏡の奥が、にやりと細まる。
「あったの?いいこと」
「……うん」
 セザールは頷いた。彼への隠し事は、無駄だと解っている。
「そっか。ふふ、よかったじゃないか」
 ロジェはそれ以上何かを問いただす訳でもなく、残りのクッキーを口に放り込んだ。
「いつか、俺にも聞かせて」
「……ああ、いつかね」
 二人は支払いを済ませると、夕日を背にそれぞれの自宅へと帰っていった。

 ・・・

 ファウストの公演から数晩明けた。数日経てば、記憶も感情も薄まるはず。そう踏んでいたが、エステルの心は今だ落ち着く様子はない。
 昨晩庭園に現れた青年、セザール・ラファイエットのことが頭から離れないのだ。
 月空の下、真摯に自身を捉える真っ直ぐな視線。強く握られた腕、最後に告げられたあの言葉。
 いつか、また会えますか。
 柔らかなテノールは今だ耳から離れず、何度も何度もささやきかける。それが恐怖によるものなのか、または別の感情によるものなのか。混乱した脳ではまだ判別がつかない。
「……」
 エステルはマントを繕う手を止め、深呼吸する。大好きな紅茶も、今日ばかりは味がしない。何か別のことに手を着けてみよう。天井を仰ぎ、目を伏せた。
 本でも読みましょうか。いいえ、きっと登場人物に彼を重ねてしまう。
 暖炉の火でも眺めましょうか。いいえ、きっとあの時の記憶が蘇る。
 食事を作りましょうか。いいえ、彼はどんなものを食べるか気になってしまう。
 何をどうしようとも、胸の内に荒波が立つ。
「一体、どうしてしまったの……」
 自問自答を繰り返すも、自分がおかしくなってしまったことしかわからない。エステルに赦されたのは、ただ無意味な時間を過ごすことだけだった。
エステル。そんなに浮かない顔をしてどうしたんだい」
 気がつけば、ペトロニーユが此方を見下ろしていた。時計を見れば、彼女が来訪する時間になっている。
「あ、ああ。ペトロニーユ。大丈夫、大丈夫よ」
「君がそういうときは大抵大丈夫じゃないんだよ。ねえ、何かあったのかい」
 ペトロニーユはエステルの真横に腰かけた。白い手袋が、優しく赤い髪を撫でる。布越しに感じるほんの少し冷たい手に、エステルは安堵した。
「あ、あのね……」
 無意識の声がすぼむ。彼女にセザールについてを話す訳にはいかない。知れば、きっと不幸にさせてしまうだろう。かといって嘘を吐けば、すぐにばれてしまう。
 言葉を探していると、不意に左手を。視線捕まれた。見れば、人差し指の先には小さな赤い滴が零れている。
「針を刺したのかい。怪我をしているじゃないか。早く手当を」
 ペトロニーユは棚から救急箱を取り出すと、手際よく処置を施した。エステルの指先には分厚く包帯が巻かれている。その様子がどこか滑稽で、笑みを零した。
「少しやり過ぎじゃないかしら」
「いいや、多少やり過ぎるのが丁度良いんだ、これは」
 おどけたように笑うと、持ってきていたバスケットを手渡してくる。
「今週分の食料だよ。足りるかな」
「一人暮らしにしては十分すぎるくらい……というよりも二人分だわ、これ」
「ふふ、君は鋭いな。だめだったか」
 自分よりいくらか長身の女性が、甘えるかのように寄り添う。女性特有の柔らかな筋肉と香水の香りが、緊張した心を安らげる。
「いいえ。これ、使わせてもらうわ。少し離れて頂戴」
「君の手料理、大好きなんだ。楽しみだよ」
 長い腕から解かれ、バスケットを持って台所へ向かう。
「今日はどうするの。泊まっていく?」
 本棚に手を伸ばしていたペトロニーユは目を輝かせるも、しゅんと肩を落とした。
「そうしたいところなんだけど……明日は昼から用事があってね。ここに来るとランチの時間まで寝てしまうだろう」
「じゃあ、明日の夕食は食べに来る?」
「そっちの方も残念ながら。知り合いとの会食があってね」
 めずらしい、と思わず口にした。
 ペトロニーユは社交の場に適した性格をしているが、そのものはあまり好きでは無いと聞いていた。必要であればやむをえず赴くような事ばかりで、会食など滅多にしない。少なくとも聞くのは一年に数度だけだ。
「その人は父の友人の一人でね。親のいない私に、昔からよく目をかけていてくれたんだ。今日また仕事ご一緒して、食事でもどうだってね……エステル。顔色が良くないがどうかしたか」
 言われて初めて、身がすくんでいることに気がついた。確かに、不快な寒気が肌を走る感触もする。
「そう、貧血かしら……少し休むわ」
「食事は私が作ろう。きっと、昨日の疲れが出ているんだよ」
 握っていた食材を取り上げられ、ソファに腰かける。いつの間にか暖炉には追加の薪が焼べられ周囲はほんのりと暖かくなっていた。
「先日のことが尾を引いているのだろうか。君に無理をさせてしまったようで、申し訳ない」
「いいの。とても楽しかったし。ファウスト、私も好きだもの」
 ペトロニーユはそっとエステルの頬を撫でると、キッチンに立った。
 心地の良い調理音と香ばしいスパイスの香りが小さな部屋を包み込む。心地よい安堵に包まれながら、エステルはそっと目を伏せた。