『月夜のノクターン』(6)
後……準備中
竜巻で一気に地上まで運ばれたリシュは、床に丸まりガタガタと震えている。ただでさえ小柄な体躯が、この体勢だとさらに小さく見える。さながらキャベツ畑の芋虫だ。
「……うう、眩しい。眩しい。目が潰れる」
額を膝にこすりつけながら、さらに小さくなっていく。
久しぶりの日光なのだろうか。しばらくあの薄暗い部屋にいた彼女には、晴れた冬の日差しは刺激が強いだろう。
「お前は観念したか?」
レスリの問いにリシュは小さく「うん」と頷く。先ほどまでの威勢がまるで嘘のようだ。情けなくちぢこまる彼女を見て、ここ数日で一番の爽快感を覚えた。
「これに懲りたら少しは休むんだな」
わかったよぉ。
レスリが差しだした手を、小さな手がとった。まるで本当に植物なのではないかと疑うほど細く、冷たい手。軽く力を込めれば、そこまで強いわけではないレスリでも、簡単に折ってしまいそうだ。
ぐい、と手を引っ張って立たせてやると、リシュは身にまとっているドレスについた埃を払い始める。手のひらで衣服を叩くたびにふわふわと白い煙が舞う。明らかに、今ここでついたものではないだろう。
「おい、なんだその服は。いつから着ている」
「うむ、忘れたな。安心しろ、特に弊害は無い」
度を超したと言ってもいい、その発言に思わずため息を吐く。
「その神経をなんかしろ。せめて人間として最低限の身だしなみは整えてくれ。グウェンドリンも、コイツを心配するのなら服の一つでも見繕え」
「心配せずともちゃんと服は買ってやっているよ。けど、着ないんだ」
なぜだ、とシリュの方にめをむけると、彼女は自信満々に言い張る。
「ああ、グウェンドリンの選ぶものはたいていフリフリしていて邪魔くさいからな!」
「お前ら……」
「リシュ先生!」
ふいに若い。いや、幼い声がした。中性的だがわずかに低い声質から、まだ変声期すら迎えていない少年なのだろうと解る。声の主のいる方角を見てみると、ワイシャツにベスト、ハーフパンツという、いかにも学生らしい出で立ちの少年がこちらに向かって小走りでやってくる。
腰に巻かれたベルトには、楽師学校指定の簡易式の杖が刺さっている。おそらく初等部の生徒だろう。
だが、なぜ彼が何故ここにいるのか、レスリは首をかしげた。生徒の所属研修にはまだいくらか時期が早いはずだ。
「……何だ彼は」
耳打ちするように、隣のグウェンドリンに訪ねる。
「ロニーだ」
「いいや、名前じゃなくて」
ロニーと呼ばれた少年は、柔らかそうな栗色の髪を揺らしながら、その大きな目をさらに丸くする。こくりと首をかしげ、リシュの顔を覗き込んだ。
「リシュ先生、頼まれたお茶を持ってきました……けど、どうしたんですか。地上に上がってくるなんて珍しい……」
「あいつに無理矢理つれてこられたんだ。あいつに!無理矢理!」
黒くなった指が、震えながらレスリを指差す。つるりと熟れた葡萄色の瞳と目が合った。ロニーは一歩近づき、恐る恐る訪ねる。
「……失礼ですが、どなたでしょう?リシュ先生のご友人?」
「ああ、私は……」
レスリがそう言いかけたとき、遮るようにグウェンドリンが一歩前に出た。
「彼はレスリ。レスリ・モロー。フランスの旅の楽師。君も聞いたことあるだろう?」
何故か、胸を張って答える彼女に一言言おうと肩を押そうとするが、それより先にロニーのキラキラと輝く無垢な視線に気がついてしまった。
「あの、レスリ・モローさんですか!僕はロニー・べジオと申します。あの、いつも世界中を旅しているって本当ですか?もし、よろしければお話を聞かせてもらえないでしょうか!」
「う、ああ、その……」
レスリは成人してから、子供というものをあまり好かなくなった。もちろん、嫌いではない。だが、その純粋な瞳で見つめられてしまうと、自分という大人の情けなさがふつふつと湧き上がり妙にいたたまれない気持ちになってしまうためだ。
言葉に迷っていると、ロニーの背後から脚の生えた洗濯物の山がよたよたとこちらに実買ってくるのが見えた。目をこらすと、それは洗濯物を抱えるアナベルだった。
「レスリ……と、グウェンドリンに、ロニー。それと……まあ、リシュまで!珍しいこともあるのね」
若干であるが声に疲れが出ているのがわかった。それもそのはず、妙齢の少女が持ち上げる布の山にしてはいくら何でも重すぎる。
「そうだ、アシルがお風呂から上がったわ。今、談話室の方に向かったはず」
「ありがとう。その洗濯物、重そうだが……手伝おうか?」
グウェンドリンが手を刺しだそうとすると、気持ちだけで十分よと首を振る。
「それよりも、アシルのところに行ってあげて頂戴な。今一人で談話室にいるはずよ」
「わかった。手伝いが必要ならいつでも言ってくれ」
「ええ、もちろんですとも」
軽く礼をすると、アナベルも軽く膝を曲げ会釈する。そしてそのまま、ゆらゆらと廊下の向こうに歩き始めた。
手伝いはいらないと言われたものの、覚束ない足取りを見ているとハラハラする。それはグウェンドリンも同じだったようだ。彼女は軽くロニーの肩に手をやり言った。
「その茶は私が預かろう。君はアナベルを手伝ってやってくれないか?」
くい、と視線を軽くアナベルの向かった方角に向ける。
「もちろんです。かしこまりました」
ロニーは手に持っていたトレーをグウェンドリンに預け、アナベルの名を呼びながら小走りで去って行った。小さな背中を見届けると、リシュがふと浮かんだ疑問について尋ねる。
「なんでアシルはこんな昼間から風呂に入っているんだ?」
「まあ……ここに来るまで遭ったんだ、色々と」
聞いた割にふうん、と興味なさげな返しをすると、グウェンドリンの持つトレーの上にあったクッキーの皿をひったくり、一つ囓る。
「はあ、こんなに日当たりのいい廊下なんて歩いていたら溶けてしまう……なんだ、談話室だったけか?行くぞ。どうせ部屋に戻ろうとしても邪魔するんだろうなお前らは」
すり切れたローブを引きずり、薄い靴底をぱたぱたと鳴らしながらは歩き始める。
「ちゃんと歩けたんだな、お前」
「私が自力で歩く姿がそんなに珍しいなら、せいぜい目に焼き付けておくことだな」
地上に私をほっぽり出したのなら、最低限のもてなしをしろ。
ひとり、小言を呟きながら揺れる背中の後を追った。ぱりぱりと絶え間なくクッキーを囓る音が耳に入る。
小動物のような背中を眺めながら、グウェンドリンに訪ねた。
「で、彼は?結局何者なんだ。あの、ロニーとかいう少年」
「ああ、あのちび助か。あれだ、弟子だ」
お前のか?と聞けば、グウェンドリンは首を振り、前を歩くローブをちょんちょんと指さした。
「はぁ?リシュの弟子?どういう風の吹き回しだ」
「私もわからん。なんせ彼女のことだ、真意はよくわからない」
話によると、数ヶ月前から手元に置いて私、の後継者にするんだ!と張り切っているらしい。確かに先ほど、先生と呼ばれていたのを思い出すが、見た限りでは小間使い扱いされている様にしか見えなかった。
「後継者か、彼もまたリシュのように何かしらの才能があるのか?」
「いや……見た限りでは、私は何も感じなかった。曰く、素質があるらしい。出会った瞬間から、この坊主は私が育てる!と言い張ってな。安心しろ、ああ見えてはいるが時折一緒に机に向かっているのは見ている」
リシュが勉強を教えている様子など、正直想像がつかない。
「素質か……リシュがそう感じるなら、学校に行かせればいいじゃないか。あの年ならまだ教育は国の機関に任せた方が得策だと思うが」
「楽師学校のことか?あぁそれがな、休止したんだよ」
彼女曰く、この不協和音事件のあおりを受けて楽師の需要が高まったため、より多く各地に支部を配置する作戦を国が決行したらしい。そのため楽師の卵である楽師学校の生徒たちが、追加戦力として現場見学も兼ねて各地に飛ばされたらしい。ロニーもそのうちの一人だ。
結果、生徒のいなくなった空の校舎は閉鎖し、学校自体も休止という形になったようだ。不協和音の事件が起きなくなるまで、という限定付きであるが。
「まあ、今のご時世国庫から分け与える金貨を少しでも減らしたいんだろうな。百歩譲ってそれを納得しても、学生たちはまだ技術的にも精神的にも未熟だ。実践なんてまだまだ早いよ」
やれやれ、と肩をすくめる。
不協和音の発生は現在もとどまることを知らない。被害を受けた町の復興に物資を割きたい国の気持ちもわかるが、彼女の言うとおり、学生に不協和音の対処を命じるには少々無理がある。普段ならば少しづつ育成していけばいいものの、一気に渡されては手に余るだろう。不協和音の対処は、調律の中でも高度な部類の技術だ。それを巻かせるにはしっかりとした訓練が必要になってくる。
「この災害の影響を受けているのは、協会にいる奴らだけじゃ無いってことさ」
ふいに前を歩いていたリシュが、談話室のドアのまで止まる。ドアノブに手をかける様子はない。クッキーを加えた顔がこちらを振り向き、顎でくいっとドアに視線を送らせる。
開けろ。そう言っているつもりなのだろう。
「お前なあ」
「いいじゃないか、ドアくらい。はいはい、開けるから」
グウェンドリンが、その扉を押し開けると、微かに石鹸の香りが漂ってくる。部屋に入ると、風呂上がりのゆったりした出で立ちのアシルが指定席のソファで読書をしていた。来訪者に気がつくと、目を落としていた本をパタリと閉じ、レスリの方に目を向ける。青い瞳がほころんだ。
「ああ、皆。待たせたようですまない」
「いいや、私たちこそ。一足遅くなってしまったようだ」
アシルの視線がわずかにそれたかと思うと、おや、と笑みをこぼす。
「リシュじゃないか。地上で会うのは何ヶ月ぶりだ?」
「こいつらに無理矢理連れてこられたんだ。ああ、融けるかと思った」
リシュはよたよたと一番大きな2人掛けソファに寝転ぶ。近くのテーブルにクッキーを置き、それに手を伸ばしてまたもやムシャムシャとむさぼり始める。
「おい、行儀が悪いぞ。せめて座って食べろ」
「行儀が悪いことは大抵健康にいいって、医者が言っていたぞ」
つんとそっぽを向くリシュの額に一撃を食らわせたい気持ちを抑え、レスリはアシルの隣の椅子に腰掛けた。
「子供の駄々じゃあるまいし。仮にも弟子をとったなら、もう少し威厳を持って振る舞ったらどうだ」
「おや。ロニーに会ったのか。あの小さいの、見てて癒やされる」
アシルは手に持っていた本をテーブルに置き、クッキーに手を伸ばそうとした。だが、あと少しでつかめるというときに、皿がスライドし手は空をつかんだ。
「私のだぞ、取るんじゃない」
「はいはい、わかったよ」
状態を起こし姿勢を正すと、グウェンドリンに視線を向ける。
「……さ、全員そろったな。何か話があるんだろうグウェンドリン」
いつもそうだからね。穏やかでいて不敵な笑みを魔王に向ける。答えが分かりきっているときに質問をする際、彼はいつもこう笑う。
「はは、ばれていたか」
「何年の付き合いだと心得ているんだ」
グウェンドリンは愛用の席に着くと、口を開いた。
「せっかく、レスリが帰っていたんだ。今日は一つ皆に話をしたい」
筋肉質でしなやかな脚がするりと組まれる。
「現在、パリの状況については各々理解しているはずだ。不協和音の発生という一大事が起きている。私はこれから皆にこれからの活動方針について話し合ってほしい。レスリという戦力が追加された今、やれることは格段に増えてきた。今回、すり合わせを兼ねて各自の持つ情報を整理しよう。ではアシル」
目配せを送られたアシルは一瞬目を伏せると、普段の朗らかな口調とは打って変わり、張りのある声色で言った。
「見ての通りだよ。国民の楽師に対する信頼は徐々に低下している。その影響か楽師に対して歪んだ認知を持った人々が表側に出始めた。以前の件やさっきの僕の出来事を見ればわかると思うけど、迂闊に出歩くと危害を加えられかねない。まあ、この屋敷にいる子は皆利口だから、心配はいらないと思うけどね」
「確か今は外出する用事のほとんどをアナベルに任せているんだったな。もう少し、負担を減らせるようになんとかしなくては」
「それなら私も一緒に行こう。腕章の着用の免除を受けているから、少なくとも遠目から見れば楽師だとわからない」
レスリがそう言うと、グウェンドリンは頷き頼んだよと頷く。続いて、シリュに視線を移した。
「なんだ、さっきも言ったじゃないか。不協和音の原因について未だ何もわかっていはいないって」
「でも、研究はしていただろう。途中まででもいい。教えてくれてもいいだろ、な?」
柔らかな、それでいて射貫くような視線がリシュを貫く。標的にされた彼女は、一度は目線をそらすものの、どうやらその瞳から何かを感じ取ったようで、わかった!言えばいいんだろう!と半ば怒り散らしながら口を開く。
「解決に直接つながる糸口というわけではないが……一つだけ収穫と言えるものが出たんだ」
シリュは自身の体の大半を覆っていた埃まみれのローブの止め具を開き、腰に固定していたベルトを外る。そこには細長いフラスコが納められていた。
「これは、定期調律の際回収してきた不協和音のコードだ」
「……コード?コードの回収って、どういうことだ」
アシルの呟きに、シリュは自慢げに答えた。
「いわばサンプリング……採取だな。それが可能だとわかったのは、私が一度、夜の見回りにつれて行かれた時だった」
ちょうど二ヶ月ほど前の出来事らしい。リシュは偶然、比較的小規模な炎の不協和音した。練習にちょうどいい、と同伴していた学生に杖を振らせたところ、加減が足らず、一部だけ調律ができず本体から離れていった。もしや……彼女はすかさず、持ち歩いている試験管にそれを収めようと試みると、驚くことに採取に成功したとか。
「国にばれたら説教で済まないだろうからと、グウェンドリンには秘密にしろと言われていたが……言ってよかったのかこれは」
「かまわない。そろそろ頃合いだと思って宝丁度良かった」
そうなのか、と不思議そうな表情をするリシェは試験管詰めされた小さな炎を見せつける。外に出せと言わんばかりに暴れるそれを、弄ぶように試験管を揺らす。そして入り口に詰まっていたコルクの栓を抜いた。
「あ!」
「おい、お前!」
不協和音そのものである小さな炎は、解き放たれ部屋の中を軽快に飛び回る。レスリとアシルは慌てて立ち上がり構える。だが、ちょこまかと動くそれに目を回され、振り上げ傘と杖がぶつかりバランスを崩した両者は折り重なるように倒れた。
「リシュ、何をやっているんだ!」
グウェンドリンが珍しく荒々しく声を上げる。当の本人はきょとんとした表情で疑問符を浮かべていた。
「大丈夫だ。コイツが引火する可能性はない。しっかり躾けたからな」
リシュは懐から上腕ほどの長さの細身の杖を取り出し、軽く振るった。すると飛び回っていた小さな焔が、止まり木に止まる小鳥のようにその先に止まった。
「調べたところ、これには自我が存在する」
な、と揺れる火に話しかけると、それは返答するようにくるくると回った。まるで、値和をしているかのようにも見える。
レスリはゆっくりと起き上がると、深く眉間にしわを刻んだまま、睨みつける。
「炎に自我?そんなことがあるのか?」
「ああ、不思議だろう。だが現にこれと……対話とまでいかないが、それなりの意思疎通を取ることができる。なー?」
炎は、そうだそうだ相づちを打つように跳ねている。どうやら本当のようだ。
「まったく、肝を冷やしたよ。そういうことは早く言ってくれよ」
「言わないでいたのは悪かったと思っている。見ろ、まるでおとぎ話の精霊のようだ」
三日月のように吊り上がった口から、犬歯がのぞく。
「まさか、それを回収して飼い慣らしたぞってのがお前の報告か?」
「ははは。レスリ、私がこんな好機を逃す訳がないだろう」
リシュが杖をくるくると回すしながら笑った。
「私はコイツのコードを解析した。不協和音の痕跡から取るコードよりも、より多くの情報が得られたよ」
杖から離れた炎がぴょこぴょことレスリたちの肩をリズミカルに飛び回る。先ほど聞いたとおり、この謎の炎が触れた場所が火種になることはない。それどころか、触れた部分からは熱すら感じない。
「確実にいえるのは、これは経年劣化では起こりえない現象だということだ。見たところ、βコードの方は特に歪みを見せていなかった」
不協和音の痕跡のコードだと、ほとんど元の暴走前の状態に戻ってしまうからな。そう言いながら杖を振り上げると、今まで分析したコードの一覧を浮かび上がらせた。空中に浮かび上がった黒い歪みはまるで黒板のようで、そこにびっしりと白い栓で文字式が書き込まれている。もちろん、専門分野の領域であるため、レスリたちにはどれがどれのコードなのか検討もつかない。
その中でただ一つ、淡く発光する式がある。それは他より数倍長く、情報量が多い。
「これは……」
「ああ。お察しの通り、光ってるのがつれて帰ってきたあいつのコードだ。そして……これが、他の街灯のコード」
杖の先を横に素早く振ると、新たなコードが浮かび上がった。その後半は、発光した文字式と同じだが、前半部分がほんの少しだけ異なっている。
「見ろβコードはもちろんのことだが、αコードが変質している」
リシュが提言したのは、通常ではあり得ない事象だった。
コードは膨大な数の文字式により成り立っている。詳細化したものの名称とその性質を話すだけで日が暮れてしまうほどだ。だが。学校などではまず大きく分けて、二つの式を教えられる。
一つはαコード、物質そのものを形成する土台となる式だ。生物か無生物か、可食か否か、可燃性か非可燃性か……それを決定するのがこれだ。現在は五〇〇年前に生きた一人の楽師による、光、天、理、闇、地、沌の六種分類説が採用されている。楽師によって、どのコードの調律が得意かも異なる。レスリは天、アシルは地、グウェンドリンは理、リシュは沌。
もう一つはβコード、その物質が持つ行動や特徴を示すものだ。αコードとは異なりその内容は時や環境によって変化するため、一定の形状を保つことが無い。芽吹いた種が実を結びいずれは朽ち果てていくのと同じだ。種類も無数に存在するため、大まかにカテゴライズすることもできない。
楽師が調律できる部分はこのβコードのみだ。物質そのものを形成し、物体が消滅する限り変化することのないαコードには触れることができない。本来は。
「何がどうして、こんな状態になったのか、今は私もわからない。真相にたどり着くには、もっと解析時間とサンプルが必要だろう。今各支部の人員にできる限りの採取を頼んで強いる。結果が来るまであと数日かかるだろう」
空中に浮かぶ文字が消え、同時にまた一つクッキーが皿から消えた。リシュは、満足げな顔でソファに寝転び、つま先で炎の精と戯れる。
和やかな光景であるが、すべてを知っていたと慢心状態だったグウェンドリンは、流れ込む情報に必死で脳を回転させていた。レスリとアシルも同様で、アシルに至っては先ほど床に転んだ時の状態のまま呆然としている。
「はあ……そうだ、レスリ。フランス国外の情報について何かあるか」
バトンを渡されたレスリも、ぼうっと空を見つめていた。はっと、気づき椅子に座り直す。
「予想はしているだろうが、全くと言っていいほどだ。不協和音が頻発することも、その予兆らしきものも何もない。この国委以外は至って平和だ」
「……はあ、やはりか」
「確実に言えるのは、今回の現象はフランスだけフランスだけ……特にパリと中心とし手起こっている。ただそれだけか」
談話室はしんと静まりかえり、誰も声を上げなくなった。しびれを切らせたレスリが口を開いた。
「本では、何か調べることができなかったのか。歴史書はとうに調べたと聞いていたが、鍵になりそうなものもなさそうか」
「文献も、手の届く範囲の全て読んだはずだ」
手の届く範囲?
そう聞き返すと、グウェンドリンの口元がにやりとつり上がった。
「ああ。ただ一つだけ探していない場所がある」
それがどこかと聞く前に、答えは出されてしまった。それは、耳を塞ぎたくなるよう
な名前だった。
「パリ総合協会図書館」
レスリは苦虫を噛みつぶしたような顔を浮かべる。フランスの楽師はその名を聞けば、皆同じ表情をするだろう。
パリ総合楽師協会図書館は、一部に『楽師協会』の名を冠している通り、フランス楽師教会が運営・管理する施設である。最新の化学と調律の技術を結成して作られた城塞のような施設の中には普通の図書館では扱えないような高価な書物、特殊な保管方法を要す書物を多く所蔵している。楽師の扱う調律の能力によってそれらを保護するために建てられた経緯を持つ。当たり前のことながら一般市民の立ち入りは禁じられている、機密機関だ。
だがその特殊性を利用し、国は外に出てはまずいものや処分のできない文書の所蔵、密会の場として利用されている。もちろん、それらの内容を知る楽師たちは口止めされており、万が一のことがあれば濡れ衣を着せられかねない状態だ。
「はぁあ……よりにもよってそこか。いや、必然とも言うべきか」
「過去に何度か閲覧要請を出しているが、一向に開けてくれる様子はない。私のような軍人かぶれを上は嫌っているんだろうなあ。いいや、あそこの官庁はそもそも楽師を嫌っているから無理もないか」
「僕にいい考えがある」
その宇切り出したのは、先ほどまで床に転げていたアシルだった。
「ほう、聞こうじゃないか」
「レスリに、閲覧許可書の請求を書かせてはどうだ?」
「ほう、その心は?」
「まだ秘密だ。けれど、効果だけは保証しよう」
グウェンドリンとリシュの視線が向けられる。
確実に面倒なことを任される。そう確信した瞬間、背筋に寒気が走った。
「私なんかより、リシュの方が有効なんじゃないか?あの建物の建設に一役買ったって言っていたじゃないか。お前がやればいいだろう?」
「はっ。私は設計図を書かされただけだ。建設途中はおろか、完成したものすら見たことが無い。もちろん、関係者とも面識はゼロだ」
「……」
徐々に、妙に居たたまれない気分になってくる。絶えず視線は注がれるため、逃げ場何度ない。
「ああ、わかったわかった。私がやればいいんだろう!」
「そうか!やってくれるか!ありがとうなぁレスリ」
魔王の満面の笑みがこぼれる。
してやられた。
レスリは力なく椅子に座り込み、とってつけたような礼を数分間浴びる羽目になった。