うみうし海底書庫

うみうし(内海郁)の作品倉庫です。

『月夜のノクターン』⑵

 

月夜のノクターン紹介ページ

《紹介ページ》月夜のノクターン - うみうし海底書庫

 

『月夜のノクターン』⑴ - うみうし海底書庫

 

『月夜のノクターン』⑶ - うみうし海底書庫

 

 

 
 港から離れたレスリは、数キロほど離れた田舎町で宿をとることにした。
 海水に濡れた体を乾かすのはコードを調律ことで難なく解消することができる。だが問題は店主に絵画を手渡し、置きっぱなしだったトランクとジャケットを回収した後だった。人目を避けながら街から街へ移動するのには骨が折れたる。
 カフェに戻った時、店主から急に「隠れるように移動するように」と釘を刺されたのだ。曰く、近頃の世間は楽師に対しての風当たりが妙に強いらしい。恐らく不協和音の影響だ。アシルからの手紙で知ってはいたものの、そこまでではないだろうと考えていた。だが、顔が割れてしまった今堂々と一人で道を歩くのは危ないと店主が何度も行ってくるため、仕方なく比較的楽師への偏見が少ないと言われている田舎町へ移動した。
 一歩一歩歩く度に体は悲鳴を上げる身体を引きずり、徒歩で店主の言う街へと向かった。その間ほぼ休みなく動いていた。宿に着く頃には立っていることがやっとで、今にも倒れてしまいそうだった。ふらふら彼の様子を見た女将は、支払いは後でいいからと急いで部屋に押し込んでくれたのだ。
 こんな病人じみた客がロビーにいること自体が迷惑だったのか、それともただ単純な親切心からだったのだろうか。疲れ切った脳で思考することは困難で、言われるがまま大人しくベッドに身を委ねた。
 宿の外観はそこそこに年季が入っているものの、マットレスはふんわりと柔らかく、飛び込んだ瞬間に瞼が鉛のように重くなる。そのままま泥のように眠ってしまった。
 次に目を覚ましたのは翌日の昼下がり。ゆうに丸一日、眠りこけてしまっていたのだ。時計の時刻を見てため息を吐くと、のそりとベッドから這い出しシャワーを浴びた。
 調律は、肉体的及び精神的負担を伴う。理由についてはまだ詳しく分かっていないが、そういうものなのだ。空気抵抗を減らすような軽いものなら大した負担にはならないのだが、調律の規模が大きくなればなるほどダメージも増える。今回は、頻繁に調律を行うレスリですらも経験したことが無い疲労を感じた。丸一日眠った現在でも、ずっしりと肩が重く、体中の節々は軋んでいた。
 必要最低限の設備しか備え付けられていないこの一室は薄暗く、逆に居心地がいい。先ほど運ばれてきた新聞と珈琲をそれぞれの手に、一人掛けのソファに腰かける。まず一番最初に目に飛び込んできたのは、昨日港で起きた不協和音の記事。顔をしかめながらも、レスリはそれに目を落とした。
 派手な写真とともに『またもや大規模な不協和音。神の怒りか協会の陰謀か』と無駄に飾り立てた見出しが大々的に売り出された。
 またこれは、品性のかけらもない。
 散々な憶測や要らぬ補足やらが書き連ねられた、なんとも癪に障る記事だ。この手のものは売れればいいのだろうな。
 だがこれによると、あの後港は近くの協会支部の楽師たちが駆けつけ、無事に復興作業が行われ始めたとも書いてある。それだけ普通に書けばいいものの……と呆れながら、冷めかけの中身を飲み干した。
 数か月もすれば、あの港町もカフェーも元通りに戻ってくれるだろう。
 ほっと一息つき、からになったカップをソーサーに乗せた。陶器の合わさる小さな音が心地いい。これからどうしようか、もう少し身体を休めるか、それとも早くパリへの切符を買ってしまおうか。まだ思考の緩い脳に問いかけていると、部屋のドアがノックされた。
「お客さん、お客さん。起きているかい」
 いい意味でやかましい、世話好きそうな中年女性の声……この宿の女将のものだ。
 レスリは首を傾げる。頼んでいた食事の時間にはまだ早いはずだ。
 何かあったのだろうかと、不思議に思いながらドアを開けると、そこには声の主たる女将と、彼女の背後でニコニコ顔をのぞかせる一人の青年が立っていた。
 上品な藍色の高襟ジャケットに、くるぶしまで伸びたマント。すらりと背が高い故に威圧的になりやすい出で立ちだが、ハンサムなその顔がほころぶと一瞬にしてその印象は柔らかくなる。ゆるくウェーブを描く黒髪の間から覗く、甘くとろけるようなその瞳に見つめられてしまえば、誰もが口をつぐむだろう。
「な、アシル……?なぜここに……」
 アシル・ジルベルスタイン。あの手紙を送った張本人である。同僚であり、友人であり、家族同然の人物。
 動揺を隠せないレスリを余所に、女将は話し出す。
「この殿方がね、お客さんに会いたい会いたいとせがむものだから連れてきてしまったんだよ。いやあ、こんなにもハンサムな人、初めて出会ったよ。私がもぅう少し若ければねぇ……」
「今のお姿も、はつらつとしていて大変魅力的ですよ」
「いやぁ、もう。口がお上手ねぇ!おやお客さん、その様子じ休憩中だったようだね。邪魔してごめんよ」
「いえ、問題ありませんマダム」
 自身の左胸に軽く手を添え、アシルは上品に会釈した。流れるようなこなれた動作に、女将はまあ、と頬を赤らめ嬉しそうに頬に手を添えた。
「お前……それは私の台詞だろう」
「いいじゃないか。何か問題でもあるのかい?」
 その一言ですっかり頭を熱くしたレスリは、無意識に目の前の友人を指差して声を荒げていた。
「は、何を馬鹿なことを言っている。私は私、お前はお前だ!」
 キャッチボールの如く繰り返される二人のやりとりを見て、女将は楽しそうに笑った。
「あっはっは、あんた達仲がいいんだねえ。親友というのは本当だったんだね」
「べ、別に……」
 確かに親友だという認識はある。だが、今それを言ってしまえばなんだか負けたような気分になる。もごもごと言いよどむレスリに反し、アシルはそうなんです、とにこやかに返した。
「そうかいそうかい。じゃあ私はこれで失礼するからね。後は友人二人でごゆっくり」
「マダム!」
 彼女は厚かましく手を振りながら、箒片手に下手なスキップで立ち去った。
 一体何がいいのだろうか。重いため息をつきながら、レスリはさらりと部屋に侵入してくる。もう止める気など起きなかった。
「わ、」
 床板のくぼみに躓いたのだろうか。アシルは重々しい音とともに倒れた。
「大丈夫か。無理に遠出なんかするからだぞ」
「あはは、善処する。」
 日の光に艶めく黒髪を揺らしながら、アシルは青い硝子のあしらわれた杖を支えに立ち上がった。
 楽師協会に所属する者は、必ず調律の際に使用する杖を所持する。言わば、楽師であることの証明の一つだ。所持者の特性を活かすようにあつらわれるため、形状も素材も千差万別。ただ、先端に装飾された五本の銀の線だけは共通している。
「……ところでだ、アシル」
「何だい?」
 椅子に座らされた彼は、人畜無害ですと言わんばかりにこちらを向いた。無性に腹立たしいのを抑え、落ち着き払った声色で尋ねる。
「どうして私がこの町にいることがわかった。居場所を伝えた覚えは無いが」
 一間開くと暢気そうににそれはだねえ、とジャケットから一枚の新聞紙を取り出す。レスリが購入したものとは別の出版社のものだ。
「これ、君の仕業だろう?」
「……」
「やはり、図星か」
 先ほどの新聞と特に記事の内容に大きな違いは無かったが、写真が多めに載っていた。主に海に散乱した木箱の残骸や、スクラップとなった車のような乗り物……レスリが攻撃に使った武器の数々だった。
 アシルとの付き合いは長い。まだ十にも満たない頃から、同じ学校で生活を共にしてきた。そのため、彼はレスリの性質を誰よりも熟知している。紅茶よりも珈琲を好む点、すぐに棘の出る口調……怒るとものを投げつけようとするのもその一つだ。
「かなり派手にやったみたいだね。木箱や船の残骸の改修作業が大変だったって、マルセイユ支部の人が言っていたよ」
 今度謝ろうね。
 優しくたしなめるかのような口調。思わずそのすらりとした脚を蹴り飛ばしたい衝動に駆られる。お前は母親か何かか、と言ってやりたいが原因が自分である以上何も言葉が出ない。そっと目を反らせた。
「ま、反省はしているようだし、特に問い詰めたりしないよ。傷に塩を塗りたくるのは僕の性に合わない」
 アシルは机に残っていたレスリのコーヒーカップをのぞき込み、おやぁもう無いのか……と残念そうに呟いた。                                         
「新聞を見てからね、すぐに港町へ迎えに行ったさ。けれどそこに君の姿は無いじゃないか。だから近くの支部伝手にカフェに行って、店主から話を聞いて……ようやくここまでたどり着いたという訳だ」
 簡単に言ってのけているが、あの新聞は見るに朝刊。ここまでの旅路を考えれば彼の行動がいかに迅速かつ的確なものかわかる。
 相変わらずの執念深さ……いや、意志の強さと言ってやれば聞こえはいいだろうか。
「ところで、わざわざこの地までお迎えに上がられたということには、何かしらの理由があるのでしょう、ムシュー」
 口角の上がった皮肉交じりの言葉をかける。
「お見通しじゃないか」
 アシルは悠々とその長い脚を組み替える。旧くなり始めた木製の足が微かに軋んだ。
「フランスが今、異常事態に見舞われていることは君にも手紙で伝えただろう?」
「ああ。手紙を受け取る前から噂は耳にしていた」
 予備のカップに珈琲を注いでやると、アシルは礼を言い、嬉しそうに一口飲んだ。
「理解が早いようで助かるよ。もちろん、一連の出来事についても協会は調査は進められている」
「……協会が、か」
 そう小さく呟くと、無意識に眉が下がった。それをアシルが見逃すはずが無い。
「あはは、そんな顔しないでくれ」
「五月蠅い」
 フランス楽師協会は、この国に在住する全ての楽師が在籍する楽師専門の国営組織だ。数世紀あまりの長い歴史を持つ、欧州に存在する楽師の集まり中でも特に権威のある組織……と、言うことになっている。表向きは。
 フランスにおいて才能を持って生まれたものは必ず、この組織に身を置くことを義務付けられ、一生離れることができないの運命だ。衣食住を保障され、役人並みの給与を与えられる彼らの生活を、一般市民は羨ましがる。能力を一つ持って生まれただけで一生困らない生活を送れるのだから。
 ……実際は違う。市民が思っているほど楽師の生活は豊かではない。そもそも楽師の寿命は一般の人間の半分にも満たず、役人並と呼ばれる給与も下っ端の下っ端程度だ。おまけに与えられた部屋は決して良質とは言えない。仕事内容も戦争への出兵、建造物の建設、炭鉱・森林の開拓など過酷なものばかりだ。街に常駐する業務でも。昼夜を問わず、通報があれば現場に駆け付けなくてはならない。それは睡眠時でも、愛する者との逢瀬の間でも変わらない。市民の思い描く悠々自適な生活にはほど遠いのだ。
 しかも、楽師という概念が広く浸透したこの現代では、たとえ他の国に移住しても、その地の楽師協会に類似する組織に目をつけられ、これまた在籍を命じられてしまう。今のところ、楽師を特別優遇する国はあまりにも少ない。結局はどこへ行っても結局は同じで、場合によっては外国人だという事を理由に、更に不当な扱いを受ける事もある。
 レスリはそれがどうしても気に食わなかった。どうにかして、せめて楽師という存在が一般人と同様に平等に扱われる事はできないのか。と、学生時代から常に考えていた。
 元々語学が堪能だった彼は、楽師学校を卒業後すぐに協会にある提案をした。
 それは世界中の楽師協会、またはそれに類する団体と某法網を作り、いつしか世界規模の組織を作り上げることだった。
 当時の会長は、一児はその提案を突き返したが、もとより頭脳明晰な彼の発言であることと綿密に組み立てられた計画書を提出されたことで最終的には許可された。次いで国からも許可をもらい、レスリは現在世界中の楽師たちや国、組織にに協力を求めに歩いている。
 当時計画した予定とは大幅に遅れているものの、確実に協力は得られている。後は、国同士の協力を待つのみだった。だが、フランス内部の人間たちはどうもその金銭的な負担を危惧し、サインを出し渋っている。
 アシルは、テーブルに置いてあったクッキーをつまんだ。白く整列した歯がそれを一口かじるったあと手を滑らせ、ころりと床に落としてしまう。
 ああ、失礼。とうっすらと埃の纏ったクッキーを、机の上の紙ナプキンで包み込んだ。
「いつの間にか食べるのが下手になったな。石化も近いんじゃないか」
 そんな軽口を笑い流し、アシルは言った。
「ふふ、君がそう言うのをきくと安心するな。変わっていないみたいで」
「人なんてそう簡単には変わらない。きっと死ぬまで言い続けるだろうよ」
「ああ、それもそうだ……続きを話そう」
 そう呟くと、マント内ポケットから掌台のノートを取り出した。
「調べていくうちに、解ったことがある。ごく当たり前のことでもあるけれど」
 しなやかでいて厚みのある手が、天井に向かって人さし指を立てた。
「この出来事はこのフランスのみで起こっている。少なくとも欧州の他の国でこの現象は確認されていない。この地独自の現象だ、恐らく。君の意見は?」
「相違ない」
 この一つ目に関してはレスリも気が付いていた。不協和音の頻発など滅多に起こらない。ひとたび起これば瞬く間に周辺地域にその噂は広まって行くだろう。現に、旅先で何度も耳にした。
「この半年、数カ国を渡り歩いてきたが、類似する現象が起きている気配は無かった。お前の言うとおりだ」
「やはりかぁ……」
 アシルは再び手帳に目を落とし、淡々と言葉を並べる。
「二つ、手に取れるフランスの過去の歴史を遡っても、前例らしき出来事は存在しない。現在の時点で前例の有無は不明だ。」
「殆ど、初めての出来事だと」
「ああ」
 夜の始まりを移したような瞳が真っすぐと、レスリを見つめる。
「手紙でも掻いたと思うけど、今楽師協会は深刻な人手不足だ。ねぇレスリ、少しの間だけでいいから、本部に身を置いてくれないか」
「手伝えと?」
 ゆるやかなウェーブヘアが、こくりと頷く。
「分かっている。その為に帰って来たんだ」
 レスリは空の椅子に腰かけ、外を眺めた。
「現にお前からの手紙を受け取る前にあの港にいたしな」
「そうか、そうだったのか。考えてみれば……じゃあ、僕が急いでここまで来なくても良かったじゃないか!」
「せっかちめ」
 間抜けな面を鼻で笑う。
「はは、なんだ……」
 アシルは安心したように、さらに深く腰かけ背もたれ天井を仰いだ。空気に晒された咽喉ぼとけが上下する。
「ふふ」
「何を笑っている」
「いいや、気が抜けてしまって」
「その程度で」
 ふとレスリが外を見れば、空が橙色の緞帳を下ろし始めていた。これからパリ行きの電車に乗っても、日が落ちてしまう。夜遅く協会の門を叩くのは少々気が引けた。
「アシル。今日はもう一泊しよう」
「ええ、いいのかい」
「ああ、どうやらお前も疲れているようだしな。少しくらい羽を伸ばしたって怒られ歯しないだろう」
 え、そんな風に見える?もしかして年齢かな……
 そう言いつつ髪をいじる友人を見て、私とお前は同い年だろうと言った。
 アシルは急に何かを思い出したように、ぱちんと手を叩いた。
「そうだ、レスリ。聞いてくれるかい」
「何だ、聞くだけなら構わない」
「どうしてもも行きたい場所があるんだ」
 行きたい場所?
 聞き返してやると、彼は頷く。そしてキラキラと輝く目で語りだした。
「先ほど女将に聞いたんだが、この辺に良い酒場があるというじゃないか!」
「さ、酒場……?」
 忌まわしき三文字がアシルの口から出た瞬間、体中の血の気が引いていく。
「酒なんて何年ぶりだろう!ああ、楽しみだ。早く行こう、レスリ!」
 優秀な楽師の一人に数えられるアシルには、一つだけ困った癖があった。癖というよりも彼自身の生まれ持った性質。あるいはレスリの知らぬ場所である植え付けられた何かによるものかもしれない。
 アシル・ジルベルスタインは、その柔和な性格からは想像ができない程の、壊滅的な酒癖がある。
 初めて彼と飲酒の席へ赴いたのは、在学中の事だった。飲酒してもとやかく言われない年頃になった時。彼を気に入っている教師の誘いで近所の酒場に赴いた時、誰も後々の惨事を予想することができていなかった。お人よしなこの男はその場の流れに流されるまま、一口安い酒を口にした。それが悪夢の始まりだったのだ。
 酒が彼の喉を通り過ぎた瞬間、まるで狼男が月の光で変化するかの如く暴れだした。カウンターに飾ってあった酒のコルクを片っ端から抜き取り、胃の中に注ぐ。誰かが止めようとすれば不幸にも持ち合わせていた拳が炸裂。勿論のこと店中は混乱に陥った。レスリがアシルの後頭部に一撃を加えたことにより事態は収束を迎えた。結局アシルはパリ中の酒場から出禁を食らい、連れは皆弁償代を支払うことになったのだ。
 この出来事の幸いかつ最悪な点は、アシルが一連の流れを全く記憶していなかったことだろう。記憶があれば過ちを反省することができるが、無ければしようがない。
 彼はも覚えていないのに何故か酒場から出禁をくらい、飲酒を禁止することを、きつく言いつけられたのだから。
 だがこの地はパリではない、片田舎の自然豊かな街だ。いつもは禁止されて折飲めない酒を呑む絶好の場所だ。
「待ってくれ、待ってくれアシル。おい、聞いているのか!」
 止めようとするが、ふわふわと浮き足だった足取りは止まる様子がない。このまま放っておけば刃傷沙汰だけならまだしも、この町そのものに入れなくなるかもしれない。せっかく気に入った街が友人の騒ぎで楽しめなくなるのは真っ平ごめんだ。
 レスリはジャケットと蝙蝠傘、わずかな金をポケットに押し込み宿の部屋を後にした。