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beast of the Opera 一〈守人〉


  一〈守人〉


 オペラ座の地下には、至宝が眠る。
 この噂を聞きつけた荒くれ者は、至宝を我が物にしようとオペラ座の地下に自ら舞い降りる。だが一度降りたが最後、彼らが地上に戻ってくることはなかった。しかも、その事実を知っていながらも、自分は生き残れるという蛮勇を持った盗人が後を絶たない。
 今日も愚かな罪人が地下道を走る。人数は三人、どれも命知らずと言えるだろう。
 湿った石畳の上。数メートルおきにある小さな蝋燭に導かれ、彼らは逃走する。鬼気迫る面持ちで、我先にと走る姿は滑稽でもあった。
 先頭を走る一人が叫ぶ。
「おい、出口はこっちじゃなかったのか」
 焦りと怒りに気圧され、二番目の男が零す。
「たしか、こっちの方向だったはずだ。磁石が言うのだから、間違いない」
 そう言って懐から磁石を取り出し覗き込む。見れば、先ほどまで同じ向きを指していた針は、ぐるりぐるりと回転していた。強力な魔力に当てられたのだろうか。これではまともに方角なんてわかりはしない。
「ああ、クソったれ……!こんな時に限って壊れやがって。早くしないと追いつかれちまう」
 無機物に悪態を吐く二人を眺めていた最後尾の男は、はっとあることに気がついた。
「待ってくれ……ここ、どこだ?」
 小さな呟きに、三人は足を止める。辺りを見渡すと先ほどまで走っていた石の地下道は消え去り、目の前には暗黒の湖が広がっていた。揺蕩うこと無く闇を映す湖面は、異界への入り口を彷彿とさせる。
 男達は身震いする。
「聞いてないぞ、こんな湖があるだなんて……」
「これ以上進めない、戻ろう」
「駄目だ、後ろからはあいつが追っ、」
 その言葉が終わりを迎える前に、ごとんと重たいものが落ちる。同時に先頭に立っていた男の体が、濡れた地面へと崩れ落ちた。
 微かな灯りに照らされ、赤い水たまりが広がっていく。
「う、うわあああああぁぁ!」
 落ちてきた者は、男の頭部だった。たった一瞬で首を切り落とされたようだ。
 残された二人の間に、緊張が走る。片方がヒステリックに叫んだ。
「まさか、アレが追いついてきたのか?無理だ、あの距離から追いつけるはずが……」
「それはどうでしょう」
 空間にこだまするように、女の声が響く。妙齢とも壮年ともつかぬ低く芯まで響く声は、二人の荒くれ者を怯えさせるには十分だった。彼らはまた絶叫する。
「逃げるぞ!」
「で、でもこいつは……」
「死んだ野郎の頭なんぞに構ってられるか、行くぞ」
 男は一人で元来た道を走り出す。ありったけの速度を出して、重い脚で駆けた。
「は、はあ。はあ……あれ?」
 暫く走った男は違和感に気がつき、後ろを振り向いた。誰もいない。自分と一緒に逃げて居るはずの仲間がいない。
 ごくりと生唾を飲む音がした。
 全てを察した男の背に、冷や汗が流れる。
 殺される。
 自分だけでも生き残らねばならない。焦燥とともに、再び腿を振り上げた。この場所から一刻でも早く抜け出さなくては。
 次の瞬間、目の前に重い何かが降ってきた。見れば、先ほど姿を消した仲間だった。腹部には縦に割れた大きな傷口が開き、今もなお絶え間なく血が滴り出している。まだかろうじて息はあるが、手遅れなのは素人目でも明白だ。
 こちらに伸ばされた腕を振り払うように、後ずさりする。死に損ないに構う暇はない。五感を振り絞って、奴の気配を探した。水路、壁穴、天井、全てを見渡すが、その姿はなかった。それでも安心することはできない。確実にこの近くにいる、という確信が男にはあった。
 ああ、こんなことになるのなら来るんじゃなかった。そう後悔しても遅い。愚か者の背後に既に、裁きの手が近づいていた。
 小石の転がる微かな音に、男は振り返る。視界に入ってきたのは一人の影だった。
 背丈は男よりも拳一つ小さいほど。そして、全身をすっぽりと覆い隠してしまう闇色のローブ。垂れ下がるくすんだ赤毛は、地面近くまで垂れ下がっている。骸骨のような細腕に似つかわしくない大鎌は、遠くの蝋燭の光に触れ妖しくギラついていた。
 ローブの隙間から覗く肌は青白く、蝋人形を思わせる。向かって左半分は白くどろりとした仮面で覆われているが、もう半分は妙齢の女性のそれだった。酷くやつれているものの、憂いを帯びた彫刻のように整っている。
「貴方で、最後の一人でしょうか」
 おどろおどろしい姿からは想像できない可憐なソプラノは、かえって男を恐怖させた。女は身の丈ほどある大鎌を軽々と振り上げ、眼下の罪人に向けて振り下ろす。
「ここに来た貴方たちが悪いのですよ」
 まるで、死神だ。
 男は掌を前に構え、指先に力を込める。すると一瞬、腕の太さほどの炎の渦が現れた。女は振り上げていた鎌を空振り、一歩、後ろに飛んだ。間髪入れず、男は渦を出し、女に向かって放つ。女は踊るように、ひらひらと舞い避けた。
 男はしめた、とほくそ笑む。
「おい、さっきの威勢はどうした。逃げるばかりじゃ殺せないぜ!」
 わざと煽っても、近づく素振りを見せない。好機をうかがうように、虚ろな視線が此方を見つめてくる。
 このままなら、いける。男の予感が確信へと変わった。
「……ああ、そうか。お前、魔術が使えないのか。なるほど獣の類いと聞いていたが、まさか本当だとは」
 返事はない。黒い外套が、闇に踊るだけだ。
「図星だな。生きたことを後悔するほど痛めつけてやろう、死ね!」
 男はもう片方の手をかざすと、湿った地下道を突き抜ける、巨大な炎を生み出す。
「燃えろ、燃えろ燃えろ〈オペラ座の怪人〉!焼き殺してやる!」
 炎は勢いを増し、壁に滴る水を枯らせる。橙色に燃え上がる光は、いつしか周囲一帯を焼き尽くした。
 しばらくして男は腕を下げ、炎を収める。すっかり呼吸は乱れ、体中から汗が噴き出している。急激な魔力消費によって体力は減り、今は経っているのがやっとだ。鼻孔を刺激する焦げ臭い匂いに、にやりと口角をつり上げた。
「ふ、ははは……これだけやれば、死ぬだろう」
 男の荒い息と微かな水滴の音が、静かに地下道に響いた。涼やかな静寂に、安堵のため息を吐いたその時。
「嗚呼、お気の毒に」
 焼き殺したはずの声が、脳にこだまする。男の額から冷や汗がにじみ出た。
「相手が悪かったですね。残念ですが、仕事なので」
 瞬間、影がが天井から降りてきた。思わずしりもちを着く。目の前に先ほどの女が立っていた。外套の繊維一つ燃えた形跡はない。
 何故だ、何故生きている。
 あんな炎の中、例え〈獣〉でも生き伸びるなんて不可能だ。
 男が上を向くと、薄暗い視界の中、一点更に暗い部分が存在しているのが見て取れる。穴だ。穴が開いていた。天井に人の通れる大きさの穴が開いている。
 ああ、なんだ。男は口の端で笑う。
「……反則じゃねぇか」
 希望を失った瞳はただ呆然と、その刃が自身の首を切り落とす瞬間まで、揺れる赤髪を見つめていた。

・・・

 パリ・オペラ座の支配人、ペトロニーユ・E・ガルニエは、楽屋の廊下を颯爽と歩く。踊り子達は皆、彼女のために道を空け、壁際でよりそうながら黄色い歓声を上げている。モーセの海割りを彷彿とさせる光景は、このオペラ座では日常茶飯事だ。
 男性ほどある背丈に、くっきりと整った顔立ち。うなじで結んだ黒髪は、揺れるたび艶やかな光沢を放つ。おまけに男装を好むせいか、誰が呼んだかオペラ座の貴公子。ロマンス小説から飛び出してきたような彼女の出で立ちには、数多の女性が虜になっている。上映される演目よりも、彼女の挨拶目当てにやってくる観客もいるほどだ。
「今日もお美しいわ。まるで絵画から抜け出してきたかのよう」
「香水を変えられたのかしら。とてもよい香り」
「あの方の姿を拝められたのよ、今日一日最高の踊りができそうだわ」
 踊り子たちはうっとりした視線を向ける。中には抜け駆けしようと声をかける者もいた。だが、ペトロニーユはにっこりと微笑み手を振るだけで、決して誘いに乗ることはなかった。
 そんな中、ある女性がが彼女の行く手を阻む。
「ねえ、ペトロニーユ。今日こそは逃がさないわ」
 一人の踊り子が、ペトロニーユを引き留めた。誰よりも白い衣装に、誰よりも煌めくブロンドの髪。そして、青空の宝石の瞳。踊り子主席のルイーズだった。オペラ座にて彼女に敵う美貌を持つ者はいないとまで謳われる娘で、パリ中に名を轟かせている。
 少しこの強そうな目元は、じっと目の前の愛しい人を見つめる。
「ルイーゼ、何のつもりだい」
「何もかもないわ。今から私と一緒にカフェーに行くのよ。ねえ」
 柔らかな腕に抱きしめられ、ペトロニーユは困ったように眉を下げる。周囲の踊り子達は歓声を飛ばすのをやめ、おずおずと引き下がった。
 ルイーズはオペラ座で最も美しい踊り子だが、同時に傲慢で我が儘な女と知られていた。愛しのペトロニーユとの会話を邪魔すれば最後、翌日にはあの手この手で嫌がらせを受け、退団に追い込まれてしまうだろう。そうやって姿を消した踊り子を、彼女たちは何人も知っていた。
「ルイーズ。私には仕事があるから、また今度にしてはくれないか」
「嫌よ。前だって、そうやってはぐらかして以来よ。その仕事って、最高の踊り子である私よりも大事なことなの」
「その質問は反則だ。君と仕事は天秤にはかけられないと言っただろう」
「嫌、答えて」
 徐々に強くなる腕を引く力に、流石の支配人とて観念した。
「……ああ、わかったよ。仕方ないな。じゃあ今日の五時、楽屋裏で待っているように。必ず迎えに行くから」
 ルイーズは目を輝かせ、本当?と何度も確かめた。ペトロニーユは彼女の手を取り、約束するよとウインクをする。有頂天になったルイーズは鼻歌を歌いながら、くるくると自身の楽屋に戻っていった。それを見届けると、ほっと胸をなで下ろし再び歩き出す。
 向かったのは、いくつかある踊り子たちの共用楽屋の一つだ。踊り子主席やそれに類する立場の役者は個室を与えられているが、それ以外は皆三~四人で一つの部屋を共有している。
「失礼するよ、マドモアゼル」
 中に入ると、一人の踊り子が部屋の隅でうずくまっていた。それを心配するようにルームメイトであろう少女たちが取り囲んでいる。
 踊り子が踊りの講師にしごかれ、涙を流すことはよくある。が、彼女の泣きようは尋常ではなかった。毛布にくるまり、震えている。まるで、何かに怯えているかのように。
「一体、何があったんだ」
 来訪者に気がついた踊り子達は、はっと顔を上げる。口を揃え、ガルニエ様!と叫んだ。ペトロニーユは彼女らの元に駆け寄り跪くと、事情を尋ねた。
「ああ、ガルニエ様。私達にもわからないのです。コレットは怯えて何も話してくれません。今朝部屋にやってきてからずっと、こんな調子で……」
「わかった。悪いが、少し下がってくれるかい。私からも彼女に話してもらうように頼んでみるよ」
 踊り子たちは頷くと、部屋の入り口の方へと下がる。ペトロニーユはすすり泣き怯える少女、コレットの手を優しく取った。恐る恐る、泣き腫らした目が視線を上げる。
「ガ、ガルニエ様……」
コレット、嗚呼かわいそうに。こんなに怯えて辛かっただろう。もう大丈夫だ、私がついているよ。だから、何があったか話してはくれないか」
 瞬間、コレットは堰を切ったように泣き出した。そして、驚くべき一言を放つ。
「私、わたし……〈オペラ座の怪人〉を見たの!」
 その言葉を耳にした踊り子達は、皆悲鳴を上げる。ペトロニーユも整った眉を歪めた。
「〈オペラ座の怪人〉ですって!」
「それは本当なのコレット
「まあ、なんてこと……!恐ろしいわ」
 口々に騒ぎ立てる踊り子へ向けて、口元に人差し指を添える。
「静かに。今はコレットの話を聞こう。続きは話せるかい」
 コレットは頷き、呼吸を整えると、ことの顛末を話し始めた。
「今日は私が楽屋の掃除当番だから、夜明けの一番でこのオペラ座に来たの。楽屋入り口から入ろうとしたわ。でもまだ管理人が開けていなかったみたいで、だと鍵が開いていなかったの。だから、仕方なく楽屋裏のもう一つドアから入ることにしたわ。この時から私、すっごく嫌な予感がしていたの」
 楽屋裏のもう一つのドア。昼でもどこか暗く、薄気味悪いと有名な場所だ。早朝と深夜に管理人が施錠のため出入りするため、開いていることの多い扉だが、殆どの役者と職員は使いたがらない。
 なぜなら、その場所がオペラ座の怪人の出現場所として有名だからだ。
「そして薄暗闇の中、私は見たの!赤く滲んだずだ袋を持った怪人の姿を!」
 踊り子達は悲鳴を上げる。興奮状態となったコレットはまくし立てるように続けた。
「その姿の恐ろしいこと!真っ黒なマントに血のよな赤毛、顔は骸骨のよう!死神がいるのなら、きっとあんな格好をしているに違いないわ!」
「黙りなさい!」
 突如飛んだペトロニーユの怒声に踊り子達は息を止めた。俯く黒髪の隙間から、見開いた目が覗くことに気づいたコレットは青ざめる。
「も。申し訳ありませんガルニエ様……」
「……いいや、誤るのは私の方だコレット。驚かせてしまってすまない。つい感情的になってしまった」
 ペトロニーユは軽く指を鳴らすと、こぼれ落ちた涙をシャボンのように浮かせ。拭う。
「実のところ、私も少し怖がりでね。恥ずかしながら、怪談の類いは苦手なんだ。かの有名な〈オペラ座の怪人〉についてとなれば尚更、ね。他の踊り子達には秘密にしておいてくれないか、」
 その言葉に踊り子達はほっと胸をなで下ろす。
 オペラ座の怪人。それはこの建物が建てられた時から流れる、普遍的な怪談話の一つだ。全身を包む黒いマントに、色あせた赤髪。そして、骸骨のような顔面。その死神のような姿をした怪人は夜な夜なオペラ座を徘徊し、この建物のどこかに存在する至宝を狙う者を殺すのだという。怪人の正体は人々の格好の話の種で、初代の支配人が生み出した魔物という説や、〈獣の病〉をもって生まれた人物のなれの果てという説もある。
 特にコレット達のような若いバレリーナは怪人を恐れていた。
「例の出入り口か……あの辺りは使わなくなった大道具が捨て置いてあるからなぁ。もしかしたら、それを見間違えたのかもしれないよ」
「でも……」
「ああ、怖いだろう。私もだ。念には念をおいて、見回りを増やすように手配するよ。もし、怪人でも大道具でもなく生身の人間だったら、別の意味で恐ろしいからね」
 さてと、とペトロニーユは立ち上がった。
「今日は踊り子のみんなで一緒に帰ろうか。もちろん、私もついて行くよ」
 コレットはぱっと顔を明るくし、礼を言う。他の踊り子達も頭を下げた。
「ただ、約束して欲しいことがある。〈オペラ座の怪人〉については、今この場に居る私達だけの秘密にしよう。他の踊り子達が怖がってしまったら次の公演に支障が出てしまうかもしれない。お願いできるかな」
 踊り子達は皆、一様に頷いた。
 その日オペラ座にいた踊り子たちは、ペトロニーユに連れられ近くにカフェに出向いた。愛らしい少女達がとろけるような甘さのスイーツに舌鼓を打ち、至福のひとときを過ごす。その光景は周囲の人々の心も和ませる結果となった。
 怯えきっていたコレット達も、怪人のことを忘れ不幸な一日を小さな思い出に変えた。
 ただ一人、二人きりのデートと勘違いしていたルイーズだけは終始ふくれっ面でフォークを握っていたことを覗いては。

・・・

 深夜、草木も眠る午前二時。オペラ座では一つの影が、足音も無く彷徨っていた。真っ黒な外套と伸ばしきりの赤毛を垂らし、一人静まった廊下を進む。
 灯りのない暗黒の中、ぬらりと淡白く浮かび上がる右半分の仮面。青い左の瞳は終始辺りを見渡し、処分対象がいないか目を光らせていた。
 ふと、背後で僅かな布擦れの音が聞こえる。人の気配だ。
 手に持っていた鎌を振り上げ、瞬時に重心を変える。くるりと踵を返し、侵入者と思しき人物の首元に刃を突き立てた。
「おっと、怪人殿、。見回りご苦労だ」
「……!」
「武器を下ろしてくれないか」
 瞬時に思考を巡らせ、耳馴染みのある人物のものだと理解すると、口元が緩んだ。
 言われたとおりに刃を下げる。
「やあ、エステル」
 声の主はこのオペラ座の支配人、ペトロニーユだった。エステルと呼ばれた仮面の女は、くすりと笑みを浮かべ、口を開く。
「驚いた。貴方がこんな時間に会いに来るだなんて」
「君に会いたくなってね。駄目だった?」
「いいえ、いつでも歓迎。でも急に来られたら驚いてしまうわ」
「失敬失敬」
 赤髪の女は、柔らかな笑みを浮かべる。無骨な金属と可憐な女性の組み合わせは、アンバランスかつどこか退廃的であった。
「相変わらず、可憐だね。ああ、君がかの〈オペラ座の怪人〉だなんて、誰が想像するだろうか」
 パリの人々が恐れる〈オペラ座の怪人〉。その正体こそ彼女、エステルだった。彼女はペトロニーユの生まれるずっと前、オペラ座がこの地に建設されたその時から、当時の支配人の依頼で深夜の見回りを生業として生きている。その存在を知るのは、支配人を務めるガルニエ家の当主たちのみ。現在ではペトロニーユだけだ。
「いつもそう言うわね。何十年も前から……それこそ、まだドレスを着ていた頃から」
「君はあの頃からずっと美しい」
「貴方は随分と見た目は変わってしまったけど。私にとっては小さなペティのまま」
 祖父以外に家族が居なかったペトロニーユが、歳の離れた友人に懐くのは必然だった。母のように甘え、姉のように敬い、恋人のように慕った。エステル自身も、幼い少女の友愛を受け止めそれに応えていた。
 二人の友人関係は今でも続いている。あの時と変わらぬまま、穏やかで少し神秘的な関係。少なくともエステルはそう思っているようだった。
「今夜は少し、ご一緒しても良いかな」
 エステルは頷くと、ペトロニーユの歩幅に合わせゆっくりと歩き始めた。上等な革靴が、カーペットに沈み、耳触りの良い音を立てる。
「それにしても、今日はどこか顔色が良くない。何かあったのかい」
 エステルは焦るように周囲を見渡すと、恐る恐る、少し……と呟いた。
「今朝、侵入者の処分のために外に出たら、若い踊り子に姿を見られてしまって。今日、貴方がお話していた彼女ね」
「見ていたのかい」
 こくりと赤い髪が揺れた。
 建設当時からこの場所に住むエルテルは、誰よりもオペラ座の内部構造について熟知している。表の通り道から抜け道まで、全てを把握していた。曰く、今日の騒動も裏から眺めていたらしい。
「最初は覗くつもりはなかったのよ。でも、どうしても気になって」
「優しいね。少し驚いていたようだけど、今は落ち着いている。それにしても君が地上に上がるとは珍しい。何かあったのかい」
「昨晩見つけた侵入者が、炎の魔術を使う魔術師だったの。酷いのよ、地下道いっぱいに炎を溢れさせて……そのせいでいつも使っている通路が開かなくなってしまったの」
 普段使用している死体遺棄用の下水道へ向かうには、一度地上へ出る必要があった。夜明けの誰も居ない時間帯を見計らったはずだが、偶然にも踊り子に見つかってしまったのだという。
「それは災難だったね」
 ええ、とエステルの小さなため息が零れた。
「ほんの少し、太陽の下へでてきただけで騒ぎを起こすなんて、申し訳ないわ」
 俯く表情に、ペトロニーユの眉間が狭くなる
「ねえ、エステル」
「なぁに」
「君もそろそろ地上で生活しても良いんじゃないか。来年で五〇年になるんだろう。先代、お祖父様への面目も立ったんじゃないかな」
 顔を覆う赤い髪を、そっと耳にかけてやる。隠れていた緑色の瞳が、寂しげな色をたたえていた。
「そう、かしら……でも」
 口ごもるその理由には、心当たりがあった。
『生涯をこのオペラ座と地下で過ごす』
 エステルと祖父の間で交わされた、この契約のせいだ。五〇年近く前のものであるが、今でも律儀に守り続けている。
「あれは支配人一族のガルニエ家との契約だろう。代替わりした今、君の雇用主は私だ。私が内容を変えれば君は出てきてくれるのかい、エステル」
「そ、そうね。確かに貴方の言う通りだけど……」
 目を泳がせ、視線を合わそうとしない。そうまでして、出たくないのだろうか。
「……わかった」
 ペトロニーユは、内ポケットから小さなケースを取り出した。
「開けてみて」
 受け取ったケースを開くと、黄金に輝くインタリオリングが収まっていた。中心にはオペラ座の紋章と、一九〇八年の文字が刻まれている。サイズは小さめでエステルの指にぴったりと収まる。
「今年は私が支配人に就任して一〇年の記念の年なんだ。今日完成したばかりで、どうしても早く君に渡したかったんだ」
「もう?そんなに経ったのね。時が流れるのは早いわ」
 受け取ったリングを愛おしげに見つめ、エステルは微笑んだ。
「でね、今月の末に記念公演があるんだ。その時、一緒に観劇してくれないかな。オペラ座の中だから、きっとお祖父様の約束を破る事にはならないし。君が誰にも見つからないように通路を確保するし、専用のボックス席をとっておくよ。五番ボックス席だ。一番眺めのいい特等席なんだよ。ね、だめかな」
 エステルは少し悩ましげに首を傾げるも、観念したように口を緩め言った。
「そんなに言うなら、仕方がないわ」
「やったあ!」
 凜々しい佇まいを崩さないオペラ座の支配人らしからぬ喜びように、エステルは懐かしさを覚えクスリと笑った。まるで幼い頃に戻ったようだ。
「そうか、じゃあ新しいドレスを見繕わなければ。靴も、髪飾りも、化粧品も!それに、その仮面も」
 ペトロニーユは、エステルの右半分を覆う白い仮面に目を向けた。白く濁った陶器の仮面。オペラ座の怪人が骸骨、死神と呼ばれる所以に当たるものだ。
 エステルの細い指が、冷たい仮面に触れる。
「……こんな仮面、本当は君に着けさせたくなかった。本当は着ける必要なんて無かったはずなのに」
「優しいのね、ペトロニーユ。あのね、貴方がくれたこの仮面、私結構気に入っているのよ」
 エステルの浮かべる表情に、嘘偽りは一つもないだろう。だが、彼女の仮面の下に深く刻まれた傷を思うと胸が痛む。
「それなら良かった。錆ついてしまった扉があったはずだ。それを直しておこうか。その手の魔術なら、私の得意分野だ」
「嬉しい。助かるわ」
 二人は並んで、オペラ座の地下へ続く道を目指す。舞台裏の細い廊下へとやってくると、行き止まりの壁から数えて五つめのタイルに触れる。力を入れて押し込むと、タイルは凹み、壁の向こうでかちりと音が鳴った。絡繰りの起動音と共に壁が回転し、地下へと続く階段が現れる。
 ペトロニーユが指先をくるりと回すと、壁に並ぶ燭台に一斉に灯が点った。こつこつと靴音を鳴らし、二人は地下へと降りる。
「魔力で動く扉にしてくれれば楽なのに。お祖父様はなんでこんな面倒な造りにしたんだか。この前だって、押すタイルを間違えて小一時間格闘していたんだよ」
「それは災難ね。でも、この絡繰りのお陰で私は安全に暮らせているのよ。魔力式だったら、直ぐに誰かに気取られるもの」
 なるほど、それもそうだ。
 階段を降り、現れた地下道を進んでいくと、壁沿いに扉が一つ現れる。ペトロニーユが取っ手に手をかけて揺すってみるもびくともしない。
「ははは……これは酷いね。私でも動かない」
「大丈夫かしら、治せる?」
「任せて」
 ペトロニーユは目配せすると扉に掌を押し当てた。指先に魔力を集中させ、扉の構造と接続する。頭の中に、情報が流れ込んできた。
「熱と錆で扉がくっついているようだね。大丈夫、すぐによくなる」
 再び魔力を流し込む。今度は扉と壁の隙間に、圧力をかけるように。すると、みしみしと軋む音と共に、細かな錆が落ちてきた。その後、重い衝撃音と共に扉が静かに開いた。
「まあ、ありがとう本当に助かるわ……私が魔術を使えればこんな手間をかけさせないで済んだのに」
「いいよ。君が使えない分、何度だって私が手を貸すよ」
 そう言って、エステルの手を取った。手袋越しに触れる小さな手の暖かさは、ペトロニーユだけが知っていた。

・・・

 フランス有数の巨大なキャンパスに、ぽつんと一人の青年がいた。亜麻色の髪に、オリーブ色の瞳を持っている。決して派手な顔立ちではないが、人あたりのよい柔和な造りをしている。
 名はセザール・ラファイエット。この学院の学生だった。彼はどこか青ざめた覇気のない表情で廊下を歩く。
 周囲の学生の喧騒の声が脳に響く。皆、笑い合い、青春を謳歌し楽しんでいる。あんな余裕が自分にあったら、どれだけ今心が軽いか。ありもしない空想をするだけでも、自分への憎しみが募るばかりだ。
 時刻を知らせる鐘が鳴る。周囲の学生達は皆話しながら校舎の中へと入っていった。セザールもそれに続く。
 手帳を開き次の授業の内容を確認すると〈解剖〉と描いてある。大きなため息を吐いた。この学校で開講される授業で、最も重要な学問の一つだ。学生たちはこぞって第一志望に書き込む人気があるが、セザールはどうしても苦手意識を感じている。だが装幀師として生きる道しか用意されていない彼にとって、避けては通れぬ道だ。
 セザールの通う大学、国立パリ・ルリユール大学は、魔書を製作する装幀師の育成に特化した教育機関だ。三〇〇年以上前からこの地に校舎を構え、数多くの魔書の製作に携わり、数多の装幀師を排出している。
 現在、研究が進み需要が高騰している魔書・装幀師の界隈は、今最も安定した職業の一つと言われている。装幀師になれば将来三世代は安泰と囁かれる程だ。故に、入学志願者も多く、倍率は二〇倍以上に上っていた。
 名門と呼ばれるこの大学に主席で入学したセザールは、不本意ながら多方面から将来を期待されている。フランス魔書協会においても権威と言えるラファエット家の子息であるから尚更だ。ただこの期待は重圧となり、小心者の彼の心を押しつぶしてもいた。
「……嫌だな」
 重いため息を吐きながら、教室を目指した。ほのかに香る、つんと匂う薬品の匂いに眩暈を覚えながら、重い扉を開いく。中では実技服に身を包んだ学生と、既に教壇へと立った教授が待ち構えていた。
 ルノー・パンスロン。この解剖学の教示にして、学院で最も厳しいと言われる男だ。
ラファイエット。主席であるお前が、一〇分前行動を怠るとは珍しいですね」
「……すみません」
 嫌みったらしく睨む教授に、すみません……と誤ると、セザールは実技服を羽織った。
「おーい。セザール、こっちこっち」
 こちらに向かって手招きする学生が一人。瓶底丸眼鏡に人懐っこい瞳、毛先の跳ねた子犬のような明るい髪がよく目立つ。
 彼はロジェ・フリムラン。フランスの古参装幀師の中の一族であり、鬼才や常識破りと言われる装幀師を多く排出するフリムラン家の子息の一人だ。
 セザールに話しかける、数少ない人物でもある。
 ロジェに向かって小さく頷くと、教科書を抱えて足早に席に着いた。
「こんにちはロジェ。今日も元気そうだね」
「そういうセザールはあまり元気じゃないみたいだ。大丈夫?」
「ああ、どちらかといえば憂鬱な気分だ」
「そこ!静かに」
 教授の叱咤が飛び、二人は肩をすぼめる。大きなため息の後、チョークが黒板を走る音が始まった。白い字で解剖実習と書かれたのを見て、セザールは一段と顔を青くする。
「今回の授業は予告したとおり、解剖実技の授業です。まず前回のお復習いから始めましょう。では、教科書の一番はじめを開いて」
 生徒達は皆、『素体解剖学』と書かれた教科書を手に取った。セザールも同じ本のページを捲る。表紙を開いて一番始めに描かれている中表紙、そこには六つの三角形が合わさり六角となった図形が載っている。
「では、二三ページを開いて。左の図を見なさい」
 言われるがまま、前回の授業のページを捲る。一面に現れた人体解剖図に、セザールは思わず顔を歪めた。
「〈獣の病〉を患う者の体は、私達のそれと殆ど同一です。ですが心臓付近の粒子臓、手首から指先にかけての発動器官のいずれかにに異常があります。この異常の名称と、彼らの死体を解剖する際に留意しておく点について述べなさい。それでは、フリムラン……フリムラン!」
「えっ」
 突然の指名にロジェは跳ね起きる。先ほどまでノートの端に小さな絵を描いていたせいだろう。ゆらゆらと目が泳いでいる。口を忙しなくぱくつかせる姿は小魚のようだ。
 仕方ない、とセザールは教授から見えないよう机の下でノートを広げる。そして該当の箇所を万年筆の先で指した。
「え、えーっと。〈獣の病〉を患う体は魔力質異常、器官障害、粒子製造障害をかかえており、常人よりも繊細であることが多いです。これらは、製本に使用する臓器でもあるため、扱いは専用の器具を使い慎重に行うべきだと思います」
 ロジェがそう答えると、教授は眉をひそめた。
「……よろしい。本来一年生でも暗唱すべき内容ですが、今回は友情に免じて許しましょう。ではみなさん前へ」
 その言葉と共に、学生達は席を立ち移動する。それに続こうと立ち上がったセザールにロジェが小さく囁いた。
「ありがとうセザール。君のお陰で助かったよ」
「今度からノートは取るんだよ。いくら実技が上手かったって、座学で点を取れなければ卒業できないんだから」
 だよね、と笑うロシェと共に、二人は教壇の前までやってきた。
 大きな作業テーブルの上には、布を被された何かが横たわっている。その中を想像しただけで、セザールは吐き気を催した。それとは対照的に、ロジェの瞳はキラキラと輝いている。
「本日は粒子臓、発動器官の摘出を行います。まず始めに、サンプルについて説明しましょう」
 教授が布を捲ると、底には簡単な服を着せられただけの男の死体が現れた。
「彼は獣の病の中で特に多くの割合を占める〈獣生病〉の患者です。魔術を行使できず、その代わりに獣に姿を変える。発動期間の変質が主な原因ですね。形態によっては人狼病や人魚病と言われることもありますが、元は同じ病気です」
 教授は死体の腕を指差す。肌にはくっきりと赤黒いまだら模様が浮かび、爪は黒く染まっていた。グロテスクな光景に息を呑む声がする。一部は悪態をつき、生理的嫌悪をあらわにした。
「静かに。獣生病の患者は発動器官……即ち手元に異常が現れます。特に丁重に扱うべき場所ですね。爪や肌は製本の装飾にも使いますから尚更。さて、今の時点で質問は」
 呼びかけに、生徒達は首を横に振る。それを確認すると教授はトレーから一本ナイフを取り出した。
「では解体の実演を行いましょう。まず、腹部の臓器の摘出から」
 教授は手際よく死体の服の一部を脱がせた。白い蝋のような胸が現れる。均等な筋肉や生々しく残る傷跡が、かつてこの体が生きていた事を示していた。
「今回は、私が摘出を行います。まずは心臓部分の粒子から」
 ロジェは好奇心に満ちた視線を教授の手元に注ぐ。ふと、すぐ隣から曖気が聞こえた。と振り向くとセザールがハンカチで口元を押さえ、吐き気を堪えている。
「セザール……大丈夫?、じゃあないよね」
 囁くように訊ねるも、セザールは無言で首を横に振る。先ほどから悪かった顔色は悪化し、すっかり白くなっていた。
「無理するなよ。苦手なんだから見なきゃいいよ」
「……大丈夫」
 本当は今すぐにこの場から逃げ出したい。そんな気持ちで溢れていたが、不格好な意地と生まれによる強迫観念がそれを許さなかった。
 教授の手に持ったナイフが、腹の上を滑る。切っ先の通りに道は赤い線が走り、脂肪と肉に切り込みが入れられた。その間を金属の器具がこじ開け、中から赤い臓物が現れる。薬品によって無理矢理鮮度を保たれたはらわたは、天井の明かりを受け、生々しい光沢を放っていた。
 それを目の当たりにした瞬間、セザールは自身の体温が急激に下がった感覚を覚えた。視界は暗黒に染まり、意識はぼんやりと遠くなる。そして体が支柱を失ったかのように崩れ落ちた。
 自分が失神しているのを理解するには、数秒の時間が必要だった。
 五感を完全に手放す直前に耳にしたのは、生徒達のどよめきと、ロジェが名を呼ぶ声だった。

・・・

 目を覚ますと、底は見慣れた木目模様が広がっている。天井だ。身じろぎをすれば、体が柔らかなベッドに包まれているのがわかる。
 この場所には見覚えがある。今まで何度か訪れた場所、学校の医務室だ。
 状態を起こし、霞む視界を晴らすよう辺りを見回す。部屋の隅の机の前に、一人の男性が腰かけているのが目に入る。
「ジェルボー先生……」
 グザヴィエ・ジェルボー。この大学の養護教諭であり、医務室の番人。
 年齢は四〇代前後と聞いているが、老人のように真っ白な髪と林檎色の目を持つ風変わりな男だ。勤務中だと言うのに雑誌を広げくつろいでいる。今までに何度も医務室にやってきたセザールとは、もはや顔見知りと言えるだろう。
 此方に気がつくと、砂糖入りの珈琲を飲みながら軽く手を振る。
「おっ、目を覚ましたかい。待っていな、水を持ってくる」
 ジェルボーは準備室から取り出した水差しとコップを、セザールの枕元に置く。
「気分はどうだ」
「……あまり、よくありません」
「ははは、だろうね」
 大口を開けてケラケラと笑う。見た目も言動も、どこか大雑把な男だ。何も知らない者が彼を養護教諭だと見破ることは、極めて難しいだろう。
「ありがとうございます、何度も何度も」
「別に構わないさ、それで給料をもらっているんだ。そんなことより、友人くんに礼を言った方がいいよ。一人で君を担いできたんだ」
 あの瓶底眼鏡の彼。
 そう言いながら、両目の前で丸を作って見せられた。ロジェの事だろう。
 医務室長は鼻歌交じりに追加の珈琲を淹れ始める。今度菓子などを差し入れしたら喜ぶだろうか、とセザールは考えた。
「なあ、ラファイエット。いい加減自分に枷を科すのは懲りたらどうだ」
 ふとした冷静な声に、セザールは俯いた。
「装幀師にとっちゃ、素体解体は避けられない手段だ。失神するほど苦手なら、今一度自分の進む道を見つめ直すのはどうだ。お前よりも長い年月を生きてきたが、無理した奴の末路を見るのはいつだって心にくる」
 カップに角砂糖を落としながら訊ねる。その言葉にセザールは顔を暗くした。
「そんな顔するなよ。別に装幀の道を諦めろって事じゃあない。少し遠回りや寄り道をするのも悪くないってことだ。ほら、べそかくな。クッキー食べるか」
「……いただきます」
 セザールは皿を受け取り、クッキーの端を小さく囓る。口に広がる甘い砂糖に、思わず目頭が熱くなった。
「……」
「泣くほど旨い。いいぞ、好きなだけ食べ名な」
 ジェルボーは水差しの横にセザールの珈琲を置くと、自身もカップに口をつけながら窓の外を眺めた。小さなボウルに入った小さなクッキーは徐々に数を減らしていく。
 太陽は既に西へ傾き、空は僅かに橙色に染まり始めていた。
「辛いことがあればいつでも話は聞くぞ。ただし、勤務時間までだがな」
 冗談交じりにジェルボーは言った。ありがとうございます、とセザールは礼をすると、ベッドから降りる。
「もう行くのか」
「はい。遅くなるといけないので……」
「そうか、じゃあな」
 手袋を着けた手を軽く手げると、背中を向けセザールを見送った。
 人気のない夕暮れの廊下を歩く。今日開講されるほとんどの授業は終わったようだ。中庭では帰宅する生徒達が校門に向かって歩いて居るのが見える。近くのカフェテリアで温かい飲み物を買い、その様子をじっと見下ろした。
 すると廊下の端からなにやら騒がしい声が聞こえる。ふと見ると向こうから小走りで駆けてくる人影を見つけた。手を大きく振りながら此方に一直線にやってくる。
 目をこらすと、それがロジェだとわかった。
「セザール!体調はもう大丈夫?……まだ顔色は良くないみたいだけど」
 もう少し休んでおけば?と言われるも、セザールは首を横に振る。
「長居していたら学校にも迷惑だろうって思って。それに、今日は父さんが帰ってくる日だから早く家に帰らなきゃ」
 そうかぁ、とほんのり太い眉を八の字に下げると一緒に外を眺め始めた。
「ねぇ、そんなにお父さんが嫌なの?」
「えっ、」
 セザールは俯いていた顔を上げ、背筋をピンと伸ばす。
「だって、君が体調を崩す時。大抵解剖の日かお父さんが帰ってくる日だろう」
 指を折りながら、今まで医務室に入った日を思い出していく。彼の言うとおりだった。
「……別に、嫌いって訳ではないよ。ただ、少し苦手なだけだ」
「それって、苦手になる理由が合うってことだよね。うん、まぁ、確かに厳しい人だけど、君がそうなる接し方をしているのも問題だと思うよ。君が僕のパパの息子だったら、でろんでろんに甘やかすに決まってる」
 主席で、礼儀正しくて、あと見てくれも悪くない。
 ロジェはセザールの長所と思われる点を、ぽつぽつと上げていく。聞いている方はたまったものではなく、顔を真っ赤にし、話にかぶせるように口を開いた。
「買いかぶりすぎだよ。所詮、座学と装幀知識だけの話さ。今に解体の成績が入れば、僕は半分以下の順位に転がり落ちるだろう。解体のできない装幀師だなんて、装幀師とは呼ばれないよ」
 そうかなぁ、と明るい色の髪が揺れる。
「今はさ、解体から製本まで全部一人の装幀師がやっているけど、いつか分業制になると思うんだ。だって、その方が効率的だし、いろいろな本を沢山作れる。パパは大量生産大量消費とか言ってたけど」
 ロジェの言葉は的を射ている、そうセザールは思った。
 実際、昨今の戦争によって多くの魔書が使用され、勝利のためにはより多くの魔書が必要となってきていた。従来のただ一人で行う製本では間に合わなくなってきている。そのため一部の装幀師の間では分業制の導入が支持する者が始めている。その筆頭がロジェの実家、フリムラン家だ。
 だが、歴史と伝統を重視する装幀師の間では分業制は嫌悪されており、今だ実行される気配は居ない。
「……そうだ!」
 ロジェは丸い目をきらりと輝かせた。
「二人でやればいいんだ!僕が解体をして、セザールが製本。苦手な部分をお互いに補えば、きっと新しい魔書が作れると思うんだ」
 ね、と向けられる笑顔にセザールは戸惑うが、思わず頷いた。
 勢いに押された訳ではない。セザール自身も一人で作るよりもそっちの方が気楽だと思っていた。
「やったぁ、君なら賛成してくれると思ったんだ。パパもきっと喜ぶよ」
 それは息子が念願の分業制を行うからだろうか、それともラファイエット家を取り込む機会になるからだろうか。どちらにせよ、貴族の思惑を勘ぐらざるを得ない。
 セザールはそのままぼっうと空を見上げる。すると直ぐ下から人造馬の鳴き声が聞こえた。門の直ぐ側に馬車が止まっている。白い木製の外装に、金に塗られた装飾、そして赤い花の紋章。セザールの家の馬車だ。
「ロジェ、うちの馬車が来た」
「あ、本当だ。降りようか」
 二人が校門の直ぐ側までやってくると、馬車の扉が開き、中から一人の男性が姿を表す。大柄で厳しい目つきの男だ。セザールの身がすくんだ。
「父上……」
「セザール、パンスロン教授から連絡が入った。授業で倒れたらしいな。今はもう平気なのか」
「……はい」
 セザールの父はその視線をロジェへと向ける。
「フリムラン家の息子か。久しぶりだな、父君は息災か」
「はい、おかげさまで!」
 そうかと、一言だけ返すと、セザールに馬車に乗るように告げる。
「わかりました。ロジェ、また明日……」
「またねー」
 セザールが馬車に乗り込むと、脳天気に手を振るロジェを背に、人造馬は動き始めた。蹄鉄が石畳の上をからからと歩く音だけが親子の間に流れる。二人は向かい合ったまま、ただの一言も発しない。
「セザール」
 しびれを切らせたのか、少し苛立った声色で父は言った。その声に気圧され、セザールはまた小さく縮こまる。
「倒れたのは解体の授業だったな。まだ克服できないでいるのか」
「……すみません」
「いい。来年の卒業までになんとかすればいいだけの話だ。他ならぬお前のためだ、必要な支援は何だってしよう」
「ありがとう、ございます」
 厳しい視線の中から垣間見える優しさに、セザールは息苦しさを感じた。
 父はセザールに期待していた。幼い頃から聡明で物わかりのいい子どもだった彼に期待し、時期当主としての教育を施してきた。それをセザール自身も理解し、父の思いに答えようと、全力を尽くしてきたつもりだった。
 だからこそ、それに応えられないと確信したときの絶望は計り知れない。父が自分に優しく接する度に、罪悪感に囚われ逃げたしたくなる。
「そうだ、半年後といえば。卒業制作は決まったか」
 ふと思い出した課題に血の気が引く。
 大学には、卒業と同時に作品を提出する習わしがある。装幀師としての第一作目の製作となるこの課題は、大学で学んだ全てをつぎ込む最も重要な課題と言える。
「たしか、フリムラン家は分業製本に対し、賛成の意見を述べているらしいな。良い機会だ、あの息子と組むのはどうだ。彼は座学はからきしだが、生まれつき手先だけは器用だと評判だ」
「いいんですか、確かお父様は……」
「立場上、表だった意見は言えないが、私も分業制には賛成だ。これからは目まぐるしい時代がやってくる、その主役は他ではないお前達だ。古い考えも大事にするべきだが、新しいことを取り入れるのも必要だと私は思う。御者、このことは黙っていろよ」
「はいよぉ、旦那様」
 脳天気な御者の声に、父は口元に僅かな笑みを零した。
 本当は、魔書なんて作りたくない。本心をさらけ出すにはまだ、セザールに勇気は無かった。
 再び静寂が訪れる。屋敷に着くまでの間、ただぼんやりと茜色の光を浴びていた。