うみうし海底書庫

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beast of the Opera  序〈装幀師ラファイエット〉


 序〈装幀師ラファイエット


 パリの石畳の上を一人の女が進む。すらりと長い手足に黒ずくめのスーツがよく似合う、少し目尻の跳ねた強い顔つきの女性だ。
 短く切り揃えられた巻き毛の黒髪は、纏う香水と共に風に揺られ、陶器の人形じみた無表情は、すれ違う人々を釘付けにする。青色の瞳は、脇目も振らず真っ直ぐと前を見つめていた。
 靴を慣らしながら大通りへ出ると、路上で一台の魔術式馬車が彼女を待ち受けていた。黄金色の装飾と白雪を彷彿とさせる機体を持つ魔術式機械馬は、ここ数年パリの新たな象徴として台頭し始めている魔術道具の一種だ。
 道行く若者達はこの最新技術に目を輝かせているが、老人たちはパリを台無しにするとあからさまな声で愚痴をこぼす。だがそんな視線などお構いなしと言わんばかりに、御者の男は新聞を眺めてていた。
 女が彼の視界へ入ると、ゴホンと咳払いし姿勢を正した。厚くなった皮膚の指でパチンと音を鳴らすと、座席の扉が開かれた。女は軽く会釈し、車内へと乗り込む。
「マドモアゼル、どこまで?」
 御者がそう訊ねると、女は「ラファイエット邸まで」と短く返事した。
「かしこまり。直ぐにつきますよ」
 軽く鞭打たれた人造馬たちが、静かに前進する。
 心地良い蹄鉄の音を聞きながら女が手帳に目を落としていると、御者が小窓越しに声をかけてきた。
「もしかして貴方も〈呪われた魔書〉の噂を訊ねに?」
 向ける視線は、子供じみた好奇心を抑えきれずにいる。手帳を閉じた女は、呆れたようにため息を吐いた。
「……否定しても、貴方はそうお考えになるでしょう」
 御者はどこか満足そう、にやりと微笑んだ。続いて無造作に蓄えられた髭を撫で、唸りながらそらを仰ぐ。
「そのナリからして、新聞記者だろう。まさとは思うが、あのラファイエットに取材の許可を頂けたっていうのかい?」
 なあ、そうだろう。と、御者は回答を迫る。
 探偵気取りのつもりなのだろうか。ピンと不躾に向けられた指先に思わず眉をひそめるも、女は淡々と返答する。
「今、それを申し上げることはできません。ですが、いずれわかることですよ」
「つまり期待していいって事だよな、待ってるぜ。きっとよく売れるはずだ。パリっ子たちは皆、〈呪われた魔書〉に興味津々だからね」
 読みかけの新聞が、車内に手渡された。一面には『呪われた魔書の被害者、再び現る』と大々的に掲げられている。ざっと目を通しただけでも、にわかに信じられない憶測ばかりが書き連ねられている。
 馬鹿馬鹿しい。
 記者は心の中で悪態を吐いた。
 呪われた魔書、正式名称〈 Le bête de l'Opéra〉。オペラ座の獣。この書の名を知らぬ者は今、パリの街には居ないだろう。
 魔術を使えない〈獣の病〉の罹患者を素材にして作られる〈魔書〉は、人間では扱えない強力な魔術の行使を可能とする。誰もが欲しがる強力な魔術道具であるが、その成り立ち故様々ないわくがついてまわることが多い。
 この〈Le bête de l'Opéra〉も例外では無い。オペラ座の地下に救う一人のから作られたこの書物は、ここ数年で最も高い評価を得た魔書だ。だが、行使の代償として周囲の人々を不幸に陥れるという噂がある。
 噂と言われているものの、現にオペラ座の支配人、製本に携わった人々、現在の所持者の親類までもが次々不幸な出来事に遭遇している。ある者は行方不明に、ある者は悲惨な終末を迎え、ある者は狂気に狂い果て死んだ。
 パリの人々はこれを獣の呪いと呼び恐れる一方、話題の種として弄んだ。各新聞社は皆こぞってこの呪われた魔書についての噂を集めていた。あちこち取材ししては言葉で飾り立て、大々的に報じている。もちろん罰当たりだと非難する声もあったが、記事を欲する支持者の声はそれを上回っていた。
 現在の所持者にして、製本に関わった人物達の最後の生き残りであるラファイエット氏。彼の家の前には、連日記者が耐えることが無い。だが彼は、極度の人嫌いらしく今まで誰であろうと屋敷の門をくぐらせた事はない。それに目をつけた心ない報道によって、根も葉も無い仮想の真実が記事にされるこもあったが依然として彼が口を開くことは無かった。
 しばらくすると馬車は一件の邸宅の前で止まった。貴族の住居らしい上品な佇まいだったが、どこか寂れた雰囲気を醸し出している。
「お待たせしました、マドモアゼル。到着しましたよ」
 御者は気取ったように指を鳴らし扉を開くと、記者に手を差し出した。その上に、手袋を着けた細い手が乗る。
「今から明日の新聞が楽しみで仕方ないよ」
「パリがひっくり帰るような、驚くべき記事をご覧に入れましょう。ご期待ください」
 御者は軽く帽子を脱ぐと、ウインクを飛ばし去って行った。残された記者は一人、館の門を叩く。開いた中から一人の執事が現れると一礼する。
「初めまして。記者のシャルロット・オッフェンバックと申します」
「旦那様から聞いております。さあ、冷えますので中へ」
 執事は記者を屋敷の中へ招き入れた。
 まず始めに目に入ったのは、客人を迎える広いロビーだった。随所に並ぶ美しい調度品はうっすらと埃を纏い、釣り下がるシャンデリアは照明の役割を果たさず、ただそこにあるガラス細工と化している。いくつかある美術品も、ガラクタ同然の扱いを受けていた。お世辞にも名家の屋敷とは思えぬ廃れっぷりだ。
 記者は何も言わず、案内されるがまま屋敷の奥へと進む。廊下も並ぶ部屋の中からも、全くと言っていいほど人気が感じられない。魔書騒動の傍ら、主人が大量解雇を実行したという噂はどうや真実らしい。
 暫く無言のまま進んでいると、執事が口を開く。
「ご存じかと思いますが、この屋敷には今私と旦那様しかおりません。そのため、満足なおもてなしができないことをお許しください」
 厳格そうな外見からは想像つかない柔和口調に少し驚くも、記者は返答した。
「いいえ、取材の許可を頂けただけで十分です。お気遣い感謝します」
「そちらのお言葉はご主人様にお伝えくださいませ。私めはただの案内係でございます……時にオッフェンバック様。旦那様は昨今の騒動で憔悴していらっしゃいます。どうか、ご容赦を」
「勿論、心得ていますとも」
 その言葉に執事は穏やかに礼を言う。そして、金色の小さなプレートの貼られたドアの前にて足を止めた。
 痩せ細った老人の腕が、重い木製のドアを開く。室内も廊下同様に薄暗くなっているが、他の部屋とは違い人の気配があった。中心には二脚の椅子が向かい合うようにして置いてり、片方は空席、もう片方には若い男性が座っている。年齢は二〇代半ばだろうが、酷くやつれたその表情は実年齢よりもいささか老けて見えた。
 男性は記者の方に視線を向けると笑顔を向ける。今にも崩れそうな、弱々しい笑み。
「……いらっしゃったのですね、オッフェンバックさん。さあ、こちらに」
 記者は促されるまま、椅子に腰かけた。レース越しに降り注ぐ午後の光が、向かい合う二人を優しく照らす。
「本日は取材の許可、誠にありがとうございます」
 記者が軽く会釈をすると、ラファイエットはこちらこそ、と返した。
「改めて……装幀師をしている、セザール・ラファイエットと申します。貴殿の求める〈呪われた魔書〉の所持者にして、生き残り……ははは、そう答えた方が様になるだろうか?」
 冗談めかして笑うと、ラファイエットは立ち上がり背後のショーケースの中から一冊の本を抜き取る。神秘的な深緑に、薔薇の花弁を模した赤い装飾。表紙と背表紙には、艶やかな金の糸で〈Le bête de l'Opéra〉と刺繍されている。
 評価を受けるに相応しい、見事な装幀だ。
「それが、噂の」
 思わず、記者は身を乗り出す。
「はい。私の製作した、最初で最後の魔書です。人々が求める〈呪われた魔書〉そのものでもあります」
「最初で最後の魔書、とは。お聞きしてもよろしいでしょうか」
 ラファイエットのオリーブ色の目が、相づちを打つように伏せられた。
「はい、言葉の通りに受け取って頂いて構いません。私はこの魔書に、装幀師として……いいえ、一人の男としての全てを捧げようと心に決めたのです」
 ラファイエットは再び椅子に腰かける。すかさず、記者の質問が飛んだ。
「詳しくお聞きしても」
「構いません。貴方はそのためにいらっしゃったのでしょう……少し、長くなりますが、よろしいですか」
 記者は声も無く頷いた。それを視認すると、ラファイエットはゆっくり口を開いた。
「これは、私が愛したただ一人の女性についての物語です。そして、同時に罪の告白でもあります」